おもち

HNはたぶん仮末代。説明書は読まないタイプなので、見切り発車で使い始めたnoteの機能…

おもち

HNはたぶん仮末代。説明書は読まないタイプなので、見切り発車で使い始めたnoteの機能を使いこなせていない。今日も明日も映えない日を生きる。メール→knowthenkatula@eay.jp

最近の記事

他者批判に必死な人たち

近年、誰しも他人の言動に対して厳しすぎやしないかと思うんですよ。 たとえば先日羽生結弦選手が「負けは死も同然」って発言したことに対して、「下位の選手に対して失礼」ならまだわかるけど、「病気で苦しんでる人に対して失礼」とか、もはや論点がぶれぶれですよ。こういうことがあまりに多くって、なんだか疲れちゃうんだよなあ。 なんて言うかなあ・・・他人のことあれこれ言えるくらい、余裕あるんですかねえ? かく言う私も、もうそれは毎日を生き抜くだけで精一杯で、他人の言動に目くじら立てたり

    • 最近ちょっと生きづらくないですか?

      全方位に対していろんな配慮が必要になってきた。 人の数だけ価値観があって、そのひとつひとつを大切にする世の中。誰にとっても生きやすい社会。ノーマライゼーションとかダイバーシティとかいうなんとなくしか理解できない横文字も一般的になってきて。 ただあっちとこっちが共存するのはそれほど簡単ではなく、それは人種や国籍や宗教、性的指向とか年齢、出身地、障害の有無などなどなどなどなどなど、あっちを立てればこっちが立たずってことが多すぎて、世の中少してんやわんやしてると思う。 配慮って

      • 大切にされ慣れてる人

        友人に、いつも憤怒している人がいる。 たいていは「~された」って言っては泣いたり怒ったりしていて、私はいつもため息をつきながらなだめる側なんだけど、最近ようやくなんでいつもトラブルばかり起こすのか考察することができた。 彼女は、「他人(特に異性)から大切にされる」ことに慣れすぎていて、少しでも蔑ろにされたと感じた時点で、それは彼女にとっての人格否定と同じことなんだと思う。 そして彼女はいつも「~をされる」側であり、「~をした」ことについては一切の陳述がない。そう、やたらと

        • 誰かのセンチメンタルに興味がなくなって、私は音楽を聴くのをやめた

          まあ誤解を生みそうなタイトルにしてしまったけど。 今までの私は、「そう!それ!その気持ち!!そうそうそう!わかる!!そうだよね!!!」って具合に、心の機微を的確に表現した歌詞に心を寄せてはそれを良しとする、歌詞で音楽を聴くタイプだった。 でもいつからか、他人の惚れた腫れたやら、大人になれないモラトリアムやら、そんなセンチメンタルでメランコリーな言葉に魅力を感じなくなって、音楽(正しくは、日本語で歌ってる邦楽)を聴くのをやめた。 なんていうか、自分から共感しに行くことをし

        他者批判に必死な人たち

          明日の私がNOと言っても

          これを食べたらその結果が体重に確実に反映されるなとか、これを買ったら給料日前四苦八苦するのが目に見えてるなとか、毎日の選択の中できっと後悔するであろうことを選ぶ日も多い。 それは他人に対しての言動も同じで、今の言い方二通りの受け取り方があるけどはっきり言うべきだったなとか、曖昧な返事でごまかしてしまったけどきっちり嫌を表明すべきだったなとか等々。 私は自分の選択に自信が持てない。 その理由をここで分析解説するつもりはないけど、どんな小さな選択にもそれを選んだ理由があるはず

          明日の私がNOと言っても

          これから幸せになる人へ

          遠くに住む友人から、手紙が届いた。 友人と言っても、実際に会ったことはない。 9年間文通を続けている「友人」だ。 月に1回のやりとりの中で、もう6年近く一人の男性が毎回必ず手紙に出てきたんだけど、三人称が「彼」から「彼氏」になって、「元彼」に変化していった。実際は「元彼」時代が一番長く、「彼氏」だった男性のことはほんの数回の手紙の中でしか知らない。 つまり彼女が一瞬だけ「彼氏」になった男性に対して未練タラタラなのだ。内容を読んでいると、遠回しにではなくかなり直接的に何度も

          これから幸せになる人へ

          自分の力でどうにもならないことで嘆くのをやめた

          昨日のnoteにも通じるけど、世の中あまりにも自分の力ではどうにもならないことが多い。 国の行く先、貧困問題、少子高齢化問題、環境問題・・・etc. 私も貧困層に分類されそうなくらいのワーキングプアである。 そして結婚のケの字も見えないどころかそんな相手がどこにいるのかすら想像もつかないし、そんな私が子供を産んで社会に貢献できるわけがない。 毎日ごみも二酸化炭素も出して生きているし。 だからと言って、そんなことにいちいち心を痛めてくよくよして何になるんだろう? それでも

          自分の力でどうにもならないことで嘆くのをやめた

          28歳まで私は子供だった

          27歳まで、早く大人にならなきゃなあと焦っていた。とりあえず嫌いなもの、不快なものに関しては一通り批判、時には否定しておかなきゃ気が済まなかったし、それを支持する人とは絶対に相容れないと壁まで作った。そのくらい私の正義は歪んでいたし、神経質だった。 28歳の時。とある病気がきっかけで、そこでしか絶対に出会えないであろう世代や経歴の人たちと病気が繋がりで出会って、酒を酌み交わすうちに、ケーキをつつきあううちに、私の嫌いセンサーはどんどん鈍っていった。 ていうか、人と関わってる

          28歳まで私は子供だった

          「一億総クリエイター※ただし映えるものに限る」時代

          このnoteもそう。自己顕示欲と承認欲求を埋めるのにちょうどいいスペース。いつでも逃げ道がちゃんとあって、気軽にはじめられる発表の場。観客とのちょうどいい距離感。 それがクリエイティブかクリエイティブじゃないかと言われたら、クリエイティブなことなんだろう、でも自分の範疇を超えてもはや虚像と言えるようなモンスター的な何かに支配されてませんか。 まったく、大いに勘違いさせてくれるツールだなあと思う。 そしてnoteに限らず、こういうものが特にネットにおいてはあふれていて、人々は

          「一億総クリエイター※ただし映えるものに限る」時代

          はてなダイアリー終了に思うこと

          2月いっぱいではてなダイアリーの全ての機能が終了したという。 2004年、ブログなんて言葉があったかなかったかあやしいころから利用していて、IDを変えながらもちょこちょこ日記を書いていた。 やたらにはてなブログへのインポートをすすめられはしたけど、それはそれでもう振り返らない過去として置いておくことにした。 私の15年間。自己顕示欲との戦いだった気がする。 身バレを恐れず言えば、はてなハイクでは私のヲチスレが当時の2ちゃんねるに立つくらい私のそれは強烈で、嘘をポストしたつ

          はてなダイアリー終了に思うこと

          道民として書かさったお題

          生まれ育った北海道から出たことがない身としては、生まれてこの方それが当たり前のこととして生きてきたからそれが特段便利な表現だとは思っていなかったんだけど、東京の人と話をしていて「押ささる」「書かさらない」などの「~さる表現(本当はなんていうか知らないけど)」の便利さに最近気づいた。 これは意味が二つあって、自分の意思とは無関係に「~がなされる」という意味と、たった今それが「~できる」状態という意味なんだけど、(前者例:勝手にボタンが押ささった、インクがなくてペンが書かさらな

          道民として書かさったお題