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人に「普通」はない。

タイに来て、人と喋らなくなり、考える時間が増えた

タイでは、いつも交流する友達もいないので
(というかあまり人付き合いが広くないので)、
仕事以外(仕事中もほぼ無口)は人と喋らなくなりました。

暇な時に、SNSを見ても、

「このカフェええやん!日本帰ったら行こう」
「友達との飲み会楽しそう!」
「みんな定期的に会ってるんやぁ」
「ハハ、今のボケおもろいやん」
「ええなぁ、日本、、」

という気持ちになるので、とりあえずchatworkに逃げてメッセージチェックすると、

「誰か今日ランチいく人〜〜」「は〜い」「〇〇行こうぜ〜」

と日本にいる同期同士のチャットが飛び交っているのを見て、

「なるほど、これが孤独というものか」と悟ってきました。

「普通」とは何だろうか

そんな孤独も慣れてきて、よくどうでもいいことを考えます。
よく人のことを「普通」と表現するのを耳にします。

「普通」とはなんでしょう。
どうして普通と感じるのでしょうか。

あなたにとって「普通」の人をあげてください

と言われても、思い浮かびません。あまり人のことを「普通」と思うことがないんだなと。

というのも人の「名前」よりも、その人の「雰囲気」「特徴」「思考」などを先に覚えるからですかね。特徴や思考は、頻繁に誰かとかぶることがないので。
(一方で数秒前に別れた人なのに名前をよく忘れます。)

個人的には「名前は〇〇、学歴は〇〇、〇〇の企業に属していて」などは正直どうでもよくて、どういう人なのかを優先的に知りたいですね。

だから僕の中にはマイノリティもマジョリティもなく、みんな「個」として見えています。

「ほぼグローバル人材」は日本でもなれる

改めて、海外でも他者を「個」として捉えることが大事だなと思う一方で、「果たして俺は真のグローバル人材なのか」と思う時があります。

そもそも「グローバル人材ってなんだよ」って話です。

英語が話せればグローバル人材といわれれば、そうでもないような気がして、どういう定義なのかを一応調べてみました。

要素Ⅰ: 語学力・コミュニケーション能力
要素Ⅱ: 主体性・積極性、チャレンジ精神、協調性・柔軟性、責任感・使命感
要素Ⅲ: 異文化に対する理解と日本人としてのアイデンティティー

資料2 グローバル人材の育成について - 文部科学省

なるほど、語学力は海外に行った方が効率的に学習できる部分があるかもしれませんが、それ以外の要素はほぼ日本でも培えるのではないでしょうか。

特に異文化の理解は、日本人同士も異文化を持っていると思いますし、一人ひとり違う文化を持っているように見えます。

例えば、
「特定のアイドルをバカにしたら怒る高校の同級生」
「魚をこよなく愛する釣り好きな俺」
「同性愛者の小学校時代の同級生」

日本でもよく見る人たち、その人たちは普通でしょうか。

僕からすれば「個」として映ります。 同級生100人の中に2、3人いるかいないかの割合ですが、かといって「普通or Not」で判断するようなことではないです。

100人それぞれいろんな軸で見ていったら、みんな「個」だと思います。

「グローバル人材」の育成すべきだという雰囲気のある日本ですが、日本においては「個」の捉え方が大事なような気がします。終わり。

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