【映画感想】イット・フォローズ

huluに来てたんで観ました。

この時点で知っていたのは、低予算で作られたホラー映画であること、しかしその内容が話題を呼んで大ヒットとなったこと、死をもたらす「それ (イット)」の正体について色んな説が出たこと、くらいです。

TBSラジオ「たまむすび」にて、映画評論家の町山智浩さんが紹介していて興味は持っていたのですが、結局劇場には行かずに数年が過ぎ、冒頭に書いたようにhuluのトップページで見つけたので観たのです。

既に「結局『それ』とは何だったのか」という事を確かめるための作業でもありましたから、本域では集中せずに、ウィンドウ画面にして吹き替えで流しつつ、ディスプレイのもう半分ではネットサーフィンしながら観ました。

映画会社から提示されている「それ」に関する情報はこんな感じです。
・"それ"は人からうつすことができる。
・"それ"はゆっくりと歩いてくる。
・"それ"はうつされたものにしか見えない。
・"それ"に捕まると、必ず死ぬ—

多かった意見として、「死」というものがありました。しかしわたしはそれにちょっと納得がいきませんでした。「それ」の正体が「死」で良いなら、近づいてくるのは死神、という、結構なんのヒネりもないものになるからです。

また他の意見として「性病」というのもありましたが、こちらはどう考えても答えではありません。「人に移せば自分はセーフ」ということが解決方法とならないのは、病にかかったら病院で診てもらう我々にとってあまりにナンセンスな答えだからです。

では、本編を見終えたわたしが思った「それ」は何だったか。

「絶望」でした。

冒頭の女性は、父親に謝りながら車を運転したのち、自ら「それ」を待って死を選びます。
話の途中で死んだ男性は「それ」にレイプされて死にますが、その時は「母親」の姿をしていました。

「それ」は人間のかたちをしていて、時に親族や友人であり、時に知らない人の姿をしている、というのは「自分が "絶望" に至るきっかけは、誰かがふしとたきっかけでもたらすものだ」ということではないでしょうか。

失恋。失業。不合格。ハラスメント。まだ先はあるはずの人生で、いくらでもやり直す手段はあるのに、「死にたい」「もう死ぬしかない」と思いつめたことはありませんか?

また、わたしの個人的経験として、「それ」を見つけたり、「それ」が近づいてくることに不安になっている状態は「鬱 (うつ)」に似ていると感じました。人には、自分が抗うつ状態であることはわかりません。何に怯えているのか、話してもその経験がない人にはまず伝わらないのです。

つまり、いよいよ鬱が近づいて来て、それに完全に捕まった状態が「絶望」であり、結果として "死" を選ぶということを、得体の知れないモンスターに置き換えて話を作っているのではないでしょうか。

「父親には打ち明けられない恥ずべき秘密を抱えてしまった」
「愛する母親に犯されてしまった」
「もう死ぬしかない」

デンマークの哲学者であり思想家でもあるキェルケゴールは、自著「死に至る病」のなかで、「死に至る病とは絶望である」と書いています。

書いているのは知っているのですが、読破したわけではないので「ああそうですか」くらいの感想しかありません。しかし、確かに絶望に至ると「自死」を選ぶしかないな、という考えに終わることは理解できます。

その「絶望」から、「抗うつ状態」から逃げられる手段はないのでしょうか。

あります、「電気けいれん療法」です。「電パチ」などとも呼ばれます。

クライマックスで主人公の女性はプールに浸かり、「それ」が来たらプールの脇に準備した (通電している) 電化製品を水中に投げ込むことで「それ」を倒そうとします。普通に考えて主人公感電死するだろ、とか、プールの脇にコンセント多過ぎだろ、とか頭をよぎりますが、「何でそんな方法とるの?」と思った人も多いのではないでしょうか (僕はそう思いました)。しかしあれがショック療法を表しているものであるならば、すごく納得がいくのです。

そして、何でセックスにより「それ」が移る (発症) するのかというと、それまでと違って、以来、何だか独りで寝ると寂しい、このまま死ぬまで独りなんじゃないだろうか、私は孤独のまま死ぬんじゃないだろうか、という不安が生じる夜が生まれるからではないでしょうか (そうでない人もいる)。日本では物心つくまでは親と一緒の布団で寝たりしますが、欧米では赤ちゃんの頃から、こどもは独りで寝ることが多いと聞きます。「誰かと肌を触れ合ったまま過ごす時間」は、童貞や処女を失うまで、そうそう得られる経験ではないと思います。

そもそも死について考えたり、死ぬのが怖かったりするというのは、性体験のないこどもでもときどき思うことです。なので、「それ」の正体は「死」そのものではない。「死ぬのが怖い」のではなく「自分が生きているということを他人と触れ合うことで実感したい」という不安が作り出したものではないでしょうか。

その「絶望」から逃げるための方法。それは「孤独」を遠ざけること。

そのために、好きな人と、もしくは全く面識のない人間と、とにかく誰かとセックスをして、「自分は独りではない (今こうして他者と肉体を介して直接的に触れ合っているから)」という感触を通じて一瞬でも「生」を感じる。

では、ラストカットが示すものは何か。あれは「共依存」を表しているのではないでしょうか。

一度絶望を知ってしまったふたりは、一旦それを遠ざけたものの、お互いにまだどこかで「孤独」の闇を抱えている。ふたりでをつないでいる間はその「絶望」は距離を置いているが、何らかの事情によってまた独りになった時、「それ」はゆっくりと近づいてくるのではないか。

そんなことを考えました。

が。

そう分析しながら観ていた反面、「どうやったらお金をかけずに観客を怖がらせることができるか」といったことに製作陣は四苦八苦したのだな、というところも感じました。

捕まったら死ぬって怖いよね。でもそれ死神じゃん。
ゆっくり近づいてくるのって怖いよね。でもそれゾンビじゃん。
なにかを触媒として誰かに感染するの怖いよね。でもそれリングじゃん。

でも他の恐怖描写に比べて、撮影するのにお金かからないよね。

じゃあそれらの要素を取り入れつつ、「これってあれじゃん」って言われないような要素を入れよう...「メタファー推し」ってどうだい? 一見低予算ホラーなんだけど、あからさまに哲学的な要素を入れて、輪郭もすこしぼやかす感じにして、ストーリー上の欠陥とか低予算で大したことができないといったアラをそいつに押し付けるんだ。すると観客は「怖かったけどよくわからなかった」という感想を抱くだろう? 何となく格好がつくじゃないか。

そんなミーティングが行われた末の作品だったのではないか。

わたしは「それ」が何かということよりも、すっかり制作者たちの知恵の絞り方の方に気が行ってしまった。そんな映画でした。

おまえらがんばったな、褒めてつかわす。生きろ。

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