【映画感想】ボヘミアン・ラプソディ

イギリスのロックバンド「クィーン」が結成され、様々な出来事を経て1985年のライブエイドのステージでパフォーマンスするまでを描いた映画。

ヴォーカルのフレディ・マーキュリーは1991年11月に死去している。死因はエイズによる気管支肺炎。45歳だった。

クィーンは、フレディの死後に発表された「メイド・イン・ヘブン」を含めると15枚のスタジオ・アルバムを出しており、なかでも「オペラ座の夜」に収録されている6分を超える大作「ボヘミアン・ラプソディ」は彼らが持つ数々のヒット曲の中でも特に知られている。

そういうことなんで、観たい人は観ると良いですよ、じゃだめですか。

これは映画で、現実に存在する「クィーン」というバンドの歴史を一言一句間違えないように描かなきゃいけないってこともなくて、そもそもそういうものを流したいならドキュメンタリーで良いわけで、ところどころに誇張や嘘を付け加えたりするから映画なんであって。

ぼくにとってクィーンの第一印象は「キモいおっさんが張り切って美声で歌っているバンド」でした。友達から薦められて借りたけど聴かずに返したのがライブエイドの翌年に行われたウェンブリー・アリーナのライブ盤でしたから92年くらいだと思います。

当時世界は空前のハードロック・ヘビィメタルブームからニルヴァーナを筆頭とするオルタナティブ・ロックブームに移行する時期でした。ギタリストの早弾き競争はそろそろ限界を迎えており、逆にテクニックなんてなくても心にガツンとくるものがあればいいんだ、みたいな姿勢でいたのがオルタナでした。

そんな時期における、僕のクィーンの印象は、「保守的で、ハードロックというにはガンズやエアロに比べて上品すぎる」というものでした。

そんななか、フレディが死去し、彼を追悼するコンサートがウェンブリー・アリーナで行われます。映画の中では停滞していたバンドの一発逆転の晴れ舞台となるウェンブリー・アリーナ。チープトリックといえば武道館を思い出す人がいるように、クィーンといえばこの会場が彼らのホーム・グラウンドと言ってもおかしくないくらい、認知されていたと思います。

そのフレディ追悼コンサートでは、数々のアーティストが彼らの曲をカバーしました。特に、欲張りにも彼らの曲をメドレーにした、「モア・ザン・ワーズ」のヒット曲を持つエクストリームの演奏からは愛を感じました。おっと、このライブの話を続けると長くなるのでこの辺で。

追悼コンサートで今までよりもクィーンというバンドに興味を持ったぼくは、PV集を買いました。「グレイテスト・ヒッツ2」のVHSだったと思います。当時はyoutubeはおろか、通信回線を使って動画を見るなんて夢のまた夢な話でした。衛星放送でMTVなどの音楽番組は放送されていましたが、自分の好きな曲がいつかかるかわからず、またどうせなら余計なテロップなど入っていないものが欲しくて近所のレコード屋で買いました。「ブレイクスルー」という曲が好きで、それがこちらに収録されたので買ったのですが、その後ほどなくして、「グレイテスト・ヒッツ1」も買いました。そのころにはすっかり、彼らのファンになっていました。

PVには正気を疑うコンセプトの映像がこれでもかとブチこまれていました。しかしそこには同時に「狂ってなどいない。これが正しいのだ」と凛として動いているフレディがいました。それはこの映画に出てくるライブエイドの「本物」の映像を観てもよくわかります。当時はじめて観たときはとてもナルシスティックで変だな、と思ったものですが、今改めて見直すと、フレディ・マーキュリーに、クィーンに求められていることを全力でやったるぜ!! という自信に満ち溢れているのです。

それに比べると、この映画のクライマックスは、ひどいものでした。

そりゃ「満員のウェンブリー・アリーナでライブする」という映像を再現しようとしたら、途方も無い労力がいるでしょう。デジタル技術無しでは映画が撮れないと言っても過言では無いほどの時代となり、またCGIを使えば映像表現/再現が不可能なものなどほとんどなったと言ってもいいほど技術が進化した今日においても困難を極めたでしょう。

しかしそこで再現されていたものは、とても空虚なパフォーマンスでした。

わたしはIMAXで観たのですが、爆音でクィーンのあのライブが鳴っていれば、ふつうなら「最高」以外の言葉は出てきません。しかしそれ以外の部分、つまり映像になるわけですが、あのライブにおいて一番大事だったなにかがスッポリと抜け落ち、そっくりさんたちが、当時本人たちがやった動作を間違えないように演じているな、程度の感想しか出てこなかったのです。

「ワシがフレディ・マーキュリーじゃーい!! お前らをロックしにきたぜ!!」

「本物の」ライブエイドで観たノリノリのフレディはそこになく、

「エイズにかかってつらたん。でも俺頑張るからみんなも頑張ってくれると嬉しい」

という感じの、胸板もそれほど厚く無い、ひょろっとした感じの出っ歯の兄ちゃんが口パクしてました。

もちろんこの映画ではじめてクィーンに触れた人ならばそんなことは気にしないでしょう。ウェンブリーくらい大きなステージでのライブをIMAXのスクリーンで体験できれば感動するでしょう。でもわたしはどうしても、「フレディ・マーキュリーの人生を語る」としたこの映画が、フレディの一本筋の通った一番大事な部分をもやもやと隠したまま最後まで描いた、という点において、とても不誠実で腹が立ったのです。

本当はもっと変態で、ゲイであることに誇りを持ち、メーターを振り切った自信家 (でも寂しがり屋さん) であったはずのフレディ。そこから「そういうところを描くと観客にウケないから......」と言わんばかりのすっ飛ばし方で物語を作った......それがどこの誰だか知りませんが、期待していたわたしの心をズタズタにした製作陣に対して、「二度と観るかバカが」以上の言葉が出るでしょうか。

いろいろ思うところはあります。映画じゃなくてネットフリックスかなんかの連続ドラマにした方が、もっとゆっくり彼らのことが追えたんじゃ無いだろうか、とか、フォーカスするのがライブエイドなら、(映画「アンヴィル! 夢を諦めきれない男たち」みたいに)「どんづまりに見えた彼らだったが観客は待っていた」ってとこに重心をおいた方が良かったんじゃ無いだろうかとか 、フレディがエイズを発症したことを入れ込むなら、時代をずらしてアルバム「イニュエンドゥ」のレコーディングをクライマックスにするとか。

しかしすでに出来上がった作品です。なにひとつ変わりようがありません。

また日本版ではエンドロールに「ショー・マスト・ゴー・オン」が流れるのですが、「身も心もボロボロになっていても、出番がある限りショーを続けるんだ」というこの映画にふさわしい曲に日本語対訳が付いていないのは流石にあきれました。ライブエイドのあとに発表された曲なので本編には直接関係ないし、予算の関係で字幕をつけられなかったのかもしれませんが、あんまりだ。

鑑賞日前日に自分の持っているiPhoneへ外付けHDDに保存してあるクィーンのアルバムを全て入れ、当日は朝から順番に聴いていってちょうど「ワークス」の途中くらいで会場入りするというベストのタイミングで準備したのですが、全て徒労に終わりました。

当初、帰りは余韻に浸りつつ、近くの居酒屋で今しがた観た作品を反芻しながら酒でも呑もうかなと考えていたのですが、実際には一番早い路線を検索して直帰し、自宅のiMacでライブエイドの「本物」の映像をyoutubeで観ました。中出しレイプされたあとに駆けつけた恋人に抱きしめられたような気分になって、涙が止まりませんでした。

映画を観てクィーンというバンドに触れ、感動した皆さんは、どうかそのまま「本物の」クィーンを好きになってくれたらいいなぁ、と切に願います。そして彼らの歩んだ足跡をアルバムや「本物の」ライブ映像で体験して欲しいとも思います。

そうしてどんどんクィーンが好きになったあと、改めて本作を見返した際に、

「ひどい映画だな。本物のフレディとは似ても似つかん」

という程度にフレディとクィーンを愛してくれたらいいなぁと考えます。

わたしは二度と観ませんが、改めて入口という役割のみにてこの作品が大ヒットし、結果クィーンを聴く人たちが増えることを切に願います。

おわり

p.s.
途中までは凄く楽しめました。なのでゲイやエイズの扱い方とか、すっげー売れて何枚も大ヒットアルバム出してる状況のはずなのに相変わらずバンドが貧乏世帯にみえるとか、意識的に悲劇の衣装を着せようとしているところがムカついたんだと思います。無駄なんで、再検証はしませんが。

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