「ジョセフ・コーネル」DIC川村記念美術館で出会った素敵なアーティスト

初めて「DIC川村記念美術館」行った。
愛すべき京成佐倉駅からバスに乗って20分。
人工でない自然(北総台地)があふれる美術館は都会ではなかなか見れないもの。
自然が多くてthe 田舎って感じでした。


歩けば歩くほど、癒されました。
中に入る


→当初は20世紀芸術の「マン・レイのオブジェ」を目的に訪れた。
組み合わさることのない物体同士を組み合わせることで目を引くだけではない。
表現したいものがありそれを最大限に表すことができる物体を選択し、(概念としての)キャンバス落とし込むことが、油絵などとは違った特徴的であると感じた。


しかし、、、
同時期に行われていたジョセフ・コーネルの新収蔵品ともとより収蔵されていた作品に非常にインスピレーションを受けた。
(マン・レイはまた今度お話しさせてください。)


今回はジョセフ・コーネルのお話し。
〇ジョセフ・コーネルの主要作品は「箱」と「コラージュ」である。


このように箱をキャンバスとして駆使し、その上でコラージュ技法で作成した。
一見みた時に情報量の多さや意味のわからなさで頭がおかしくなります。
私も館内でこれらの作品を見た時、意味のわからなさに愕然。
観覧の最後ということもあり、深く作品を眺めることはできなかった。(勿体無い)


しかし、帰宅後にインターネットで作品や生涯について調べたところ、
これらの意味合いに非常に感銘を受けた。
※コラージュについて
 ・コラージュ(collage)とは,もともとは「coller」というフランス語から由来する言葉で,「のりで貼る」という意味があります。写真や絵や文字などを,新聞・雑誌などから切り抜き,これを画用紙やケント紙などの台紙に貼って1つの作品にするものです。

《参考文献》
 杉浦京子著 『コラージュ療法』 1994年 川島書店 pp.3-15


〇箱を使う意味
結論、「箱」を使う理由は「記憶」の「集積」・「構築」である。

暖かい家庭(5人家族、暖炉)にあったコーネル。
弟が脳性小児麻痺であったため、知的障害があったようだ。
少なからず、記憶について考えさせられる環境にあったのではないだろうか。
転機があったのは14歳の時の、白血病による父の死亡。
そこから時間が止まったような静けさが訪れた。
しかし、素敵な家族・自分の人生を生きた記憶だけでなく、「何気ない時間の記憶」の忘却を許したくないという思いがあったという。
特に彼が好んでいた、花屋や本やなどのウィンドウ・ショッピング、オペラなどである。
それらから得た「箱」というインスピレーション
 ・ウィンドウショッピング→窓の中の展示(集約)
 ・オペラ→建築、演劇、歌などの集約

コーネルは箱を「精神の器」と意味合いをとらえた。
また、「忘却」が意識下のものである(生の必然)として考え
→それを意識上のものとして箱に収める(記憶の集積・構築)
上記を行う手法としての、「コラージュ」

〇使っているコラージュ道具を見てみる

『小瓶、窓ガラス、コルクの栓、パイプ、図など』
これらに共通していることは、見ている方々が忘れたでろう特徴のないもの。
いわゆる忘却されがちなもの(一つひとつを大切にしてほしい)を多く使っている。
それゆえに、日常的に何気なく使っている小物が多いと感じる。


私の感想
絵を描く際には好きなものや大切にしたいものをモチーフとすることが多いが、
そのほとんどは、動物や静物などの物理的なものが多い。
しかし、コーネルは「記憶」という抽象的なものをモチーフとし、
またそれをコラージュという物体を組み合わせて作るという点で、
矛盾がミステリアスさを演出していて興味深いと感じた。
抽象画は、カンディンスキーのように抽象的に描くことが多いと感じていたが、
これは描くというよりも「蓄積する」という認識に近い。
意味の込められた物をコラージュする手法を用いることで、「記憶」の「集積」と「構築」を実現させた。きわめて納得感がある作品であると感じた。
今まで漠然と「横着である」と感じていた(めっちゃ失礼)、
コラージュ作品への苦手意識がなくなった。
絵を描くキャンバスにも意味合いがある、あなたは何をキャンバスに選びますか?
絵を描く以前に「それを絵でやる必要があるのか」という質問をする方々の意味が分かった気がします。
その道具を使う意味も大切です。
それ以上に、それを表現する意味を考える必要を明確にしないと絵は完成しない、伝わらないと思った。

【参考文献】
世界現代美術作家情報サイト

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