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自己紹介(社会人編|前編)

自己紹介の2回目「社会人編|前編」です。どう考えても社会人編が1つのnoteでは終わらなさそうでしたので分けて書いていこうと思います。しかも結論から言いますと、社会人にまだたどり着くことなくこのnoteは終了します。。
今回からご覧になられている方は是非「学生時代編」もご覧になってみてください。

突然の母の病気

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私が大学4回生の時、母を亡くしました。母は肺腺がんでした。
肺腺がんというのは、肺がんの中でも最も発生頻度の高いがんであり、肺がん全体のおよそ半数が腺がんであるといわれています。女性やタバコを吸わない人にも多く、肺の奥のほうのこまかく枝分かれした先にできるため、初期には症状がないことが肺腺がんの特徴だそうです。

 母はいつも健康で、大きな病気一つもしたことがない人間でした。そんな母が大学生の私と深夜のテレビ番組のことで話が合うことが増えてきたのは、私が大学3回生の頃。「母さん、あんまり最近眠れなくてね」と言っていた記憶はありますが、常に健康だった人を前にして正直あまり気にも留めていませんでした。
 母はパートもしたことがない専業主婦でしたが、私が大学生になって初めて中華料理屋でパートをすることになりました。「今日は〇〇を教えてもらった」「今日は〇〇を作れるようになった」と嬉しそうに電話越しで話してくれたことが懐かしいです。
 そんなある日、父から「母が入院した」との一報が入ります。当時大阪の大学に通っていた私は、学校の講義の関係でその日には帰ることが出来ず、翌日掛川に急遽帰省することにしました。

別れが来ることを知らなかったのは私だけ

 翌日掛川の病院を訪れた私は2つのことで驚きました。1つは母がすごく痩せていたこと、もう1つは母の両親(私からみると祖父母ですね)が九州から来ていたことです。母は「なんだか痩せちゃって、あれほど痩せられなかったのになんだかね~」と笑っていました。ここで覚えた病室での軽い違和感は今でもよく覚えています。
 それからの日々はあっという間でした。わずか9か月という時間を母は懸命に生きて、旅立っていきました。入院の3ヵ月前にがん検診を受けていたのに、母の身体の中に隠れていたがんは残念ながら見つかりませんでした。
 母が最期に私に言ったこと、それは「世界に羽ばたく」という言葉。世界に羽ばたく人になって欲しかったのか、今となっては分かりません。ただ最後まで子どもに期待を持ってくれていたことは、いつまでも忘れないつもりです。母の最期を私は看取ることができませんでした。亡くなる2日前に大阪に戻っていたからです。とても調子が良さそうで「これなら退院も出来るかもね」なんて笑っていた母。その笑顔に見送られて安心して大阪に帰った私。でも、その願いはかなわずわずか46歳という短い人生を終えたのです。

 実は母ががんであることを知ったのは、母が亡くなってからでした。葬儀の準備の際、机の上に置かれていた死亡診断書を見て、私は母ががんだったことを初めて知りました。「どうして教えてくれなかったの!」と声を荒げましたが、父からは、私が掛川に戻るのが1日遅かったこと、人一倍母さんのことを気にかけ、涙もらい私には母の病状を伝えないほうが良いと思ったこと、が伝えられただけでした。結果、父とは8年くらい連絡が途絶え、関係が断絶することになりましたが、今はもちろん仲良く暮らしていますし、父が何よりつらい時間を過ごしていたことを分かってあげているつもりです。

母が亡くなった9月が来るたびに、当時よく聴いていたGreen Dayの Wake Me Up When September Ends を思い出します。歌詞の中のfatherが、私にとってはmotherですが。。この話をnoteに残すことが出来たのが9月30日というのも、またなんという偶然でしょう。9月が終わり10月に向かいましょう!今年も残り3ヵ月ですね。

(あれ?社会人編では。。。この後、母の存在が私を思ってもみない世界に導いていきます。続く)

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