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田んぼを見て思い出した、5歳くらいの無邪気な自分

田んぼが一面に広がる場所へ行った。

目的地は田んぼではなかったが、目的地周辺が田んぼだらけたった。たぶん刈る寸前で、米の粒がはちきれんばかりにふくれていて、密集していて、見事に「頭が垂れている」状態になっていた。

歩くのがおぼつかない子どもみたい。2歳くらいのときって、好奇心旺盛だけど頭が重くてトテトテ歩くから、いつ転んでもおかしくないように見える。本人は至って真剣だけど、こちらから見てるとハラハラする。まあ、だから愛おしいともいえる。


そんなことをぼんやり考えていたら、私が小さかった時の記憶がフラッシュバックした。

当時住んでいた家のまわりが、田んぼだらけだったのだ。ほんとはやっちゃいけないけど、稲が育つ前の時期は田んぼのなかに入って、おいかけっこしたり虫を捕まえたりしていた。

フラッシュバックしたのは、5歳くらいの記憶である。


私は子ども用スクーターに乗って、近所をぐるぐる走ることにハマっていた。ひとりでも颯爽と走っていたし、時には友達と競争もしていた。

あるとき、何を思ったのか駐車場から田んぼまでスクーターに乗ったまま移動する遊びを開発した。駐車場がゆるやかな坂になっていて、こがなくても道の向こうの田んぼまでたどり着いたのである。

田んぼの周りにはブロック塀がついていたから、そこがゴール。スクーターのタイヤがコンッ…と軽くぶつかって、スクーターがコテッと傾いたらおわり。また駐車場に戻って、乗って……の繰り返し。

想像つくと思うが、横にコテッと傾くばかりではない。


……何度か前にダイブしている。

つまり頭から田んぼに落ちている。


なぜああいう危機的状況のときって、景色がスローモーションに見えるのだろう。

見ている世界が逆さまになっていく様子だけ、かなり鮮明に覚えている。もちろんそのあとは泥だらけになって大泣きするんだけど、私は大泣きした記憶より世界がひっくり返っていく様子の方が覚えているのだ。

当時は痛かったはずなのにね。こんなに記憶が美化されるんだから、人生続けてたらいいことあると思わざるを得ない。


「時間が解決した」と言ってしまえばそれまでなんだけど、そうでないことも多い。

時間が解決することの真理は、考えることが少なくなったか、そもそも記憶からなくなったかどちらかが多い気がする。(もちろんそればかりではないが、私の経験上の話)


時にはどうにもできずに時間に身を任せたいと思うなどするけど、どうせ同じだけ「生きる」なら、できるだね自分で自分の舵取りをしたい。頭から泥水にダイブするかもしれないけど(笑)、自分で舵取りできる場所に、戻ってこれたらいいのだから。


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