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「定義する体験」は、井戸端会議くらいの余白であってほしい。

生物が長い年月をかけて最適化してきた機能を、新しい社会作りに応用すること

を「ソーシャルバイオミミクリー」(生物模倣する社会作り)と勝手に呼ぶことにしています。

Back to いつかの菌未来。ソーシャルバイオミミクリーに生きること。

このママゴト的な言葉遊びで面白いのが、内容だけでなく「定義する体験」です。

ちっちゃい脳みそを大掃除しながら、誰得のしょうもない自分ルールを吐き出す作業。これ凄く面白いし、まさに誰得なのか分からないけど大事な体験な気がしています(笑)

「定義」の意味を調べると、

コミュニケーションを円滑に行うために、ある言葉の正確な意味や用法について、人々の間で共通認識を抱くために行われる作業

とのこと。

つまり、「AとはBである」という共通認識を作ることみたいです。(人と人との関係が前提なんだ)

物事から滲み出た本質を言葉にして、周りの人が「あ!そうだよね」となることなのかも。

この「定義する体験」は自分の視点や温度のある言葉を作るし、更に「定義する共体験」はコミュニティを育む気がしています。

自分たち生まれの価値を作った感は自分ゴト化に大きな影響力を持つし、共通認識を持とうとすることはみんなが心地良いものであろうとすることなので。

ただ、本質的だと思っても部分的で、共通認識だと思っても独り善がりなのはきっと避けられません(笑)なので、定義はたった一つの意味を決める裁判所ではなく、一つの視点を増やす井戸端会議くらいの余白であってほしいし、常にアップデートできる楽しさ感をもたないと窮屈な気がします。

それを踏まえると、「余白のある定義作り」は「共通の心地良さを作る営み」でもあると思いました。

ということを考えながら、言葉遊びを続けていきます(笑)

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