友好の夢

「友達がいない」と嘆いている人間は大きく2種類に分けられる。関係を保っている人自体が皆無な人、良い関係自体はあるが自身の中の『友達』の基準が高いが故にいないと認識している人の2つだ。
このうち前者は一歩踏み出すことさえできれば状況の改善が見込めるが、後者はそうもいかない。外から見ると仲が良さそうに見える関係でも当の本人に自覚がない。そのためまず今持っている関係に対して視点を変えなくてはならない。
この視点を変えるという作業が厄介でその性質上視点を変えたい人自身だけではできない。1人で視点を変えようとしたとしても持っている自分の心や価値観が枷になり大きくは変わらないため、まず外からの刺激で心や持ってる価値観を変えなければ現状の打開は難しい。基準が高くてできないなら何かしらで基準から変えてしまえという話だ。そしてこれが簡単にはできないために「友人がいないと言い張る人」は苦しんでいる。

こうして基準を上げてしまう事自体はある種の自衛とも言える。殻にこもっているとでも言うのだろうか、過度な期待等で交友関係からダメージを負う事から身を守っている状態。実際に経験し心に響くようなダメージを受け過ぎたことによる弊害で閉じこもってしまってることが多い。こういう場合「友人がいない」ことよりも「人を信じられない」ことが苦痛なためある意味友達を作る事に向いていないと見た方が良いのかもしれない。

話題を共有したり遊びに出かけたり一緒にいる時の空気感だったりの人間関係の間で起こる行動自体は目に見えるが、人間関係そのものは直接見えるものじゃない。ゲームのように好感度ポイントが目に見えるように現れることはなく相手がどういう感情を抱いているか仕草や態度から推測するしかない。そしてその推測の答え合わせは基本されないし、されたとしてその答えが真実かどうかすらも知るすべはない。今の人間にテレパシーは使えない。
だから今認識している交友関係は全て自分の妄想に過ぎない、という事すらも言えてしまう。裏の顔は持ってない人の方が希少な現代、端から信じ切ってしまうのはリスクがある。

諸々承知で尚、私は信じていくスタンスで生きている。理由は簡単で楽だからだ。
私が見たありのままだけを捉えて生きているので余計な詮索の必要が無い。考えても答えの出ない場所への思考を捨てた分肩が軽くなる。分からない所は「信じる」ことで思考放棄しつつプラスに置き換えて精神状態の改善も図る。
もちろん信じていたものから裏切られた時にダメージはある。置いていた感情が強ければ強いほど反転した時に鋭く牙を剥く。あまりのダメージに耐え切れず三日三晩泣いて発狂したこともあった。ただそれは私自身の盲目さと無関心さのバランスが取れていなかった事が原因でそれ以降は感情の配分に気を付けて万が一があっても心が壊れないラインを探っている。

結局正解はない。どう関係を作ろうと長所も短所も表裏一体に存在していて当人が何にこだわるかで全て決まる。どんなに劣っているように見えたとしてもその分確実に利点がある。持つ信条と相反する場合以外なら無理に変える必要はなく、磨き続けてアイデンティティとするのもまた一興。
同じ体制を続けることに疲れたなら新しい目線を切り開く意味でも変えるべきだろう。どう選択したって目指すものがあるならそれでいい。大事なのはたどり着くことじゃなくてゴールへ走ることとその過程の出来事、正解か否か選択を評価するのは最果てを見た後で良い。
私は「信じる」ことに依存し過ぎて逆にどうしても信じれない相手は片端から切っていくという粗雑極まる交友関係を構築している。身内は信じてるくせして疑わしきは罰する、道徳0疑心暗鬼の化身のような生き方であるためいずれ天罰が下るだろう。
それでも友達と呼べる人は周りにいてくれるし評価してくれる人だっている。そんなありのまま美しい世界だけを見ていたい。



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