怒れる強者と絶望するゾンビ

現代社会においては怒りの感情を見る機会があまり無い。怒ってその場の状況を変えるよりもそこから離れて怒る必要の無い新しい居場所へ移る方が省エネで楽だからだ。
怒りが持つエネルギーはかなり大きい。発するだけで他の感情とは比にならないほど疲れる。SNSで人間関係の距離感がバグった現代人にとってこの疲れはコミュニケーションに対しての恐れをも生み出すはずで、ならば必然的に怒りそのものを消し去り余ったエネルギーを人間関係の保全に充当していることは想像に難くない。怒る事自体が体力的に非効率なのだからできるだけ回避したいと思うのは自然だ。

怒りは期待の反転で最初から期待していないものに対しては怒りは生まれない。だから怒りを回避したいのなら森羅万象に対して絶望している状態が最も望ましい。希望が無ければあらぬ期待をすることもない、よって怒りにエネルギーを使わなくて済むという訳だ。
そんな状態が良いはずは無いが怒りから逃げ続けるといずれ身に起きる。期待することすらできなくなっては怒り以前に喜びすら感じなくなってしまう。そんなものは感情が死んだゾンビだ。

期待をするなら必ず裏切られるリスクが付き纏う。そしてその期待は自分勝手のエゴに過ぎないのだから望み通りに事が進まない時は捨て去るかそのまま膨らませて怒りへ変えるかの選択を迫られる。光があれば影ができるのは当然の事。
そして期待を捨てることは期待しない事よりも遥かに辛い。最終的な思考形態こそ大きく変わらないが大事にしていたものを捨てる心労がある分精神状態は全く違う。期待なんてしなきゃよかったと吐き捨てる人を何人も見てきた。

思うに期待ができる人は相当精神的に安定しているのだろうと思う。少なくとも精神的に不安定な人間が縋りつくものは期待よりも信仰に近く、どんなことも都合よく妄想で書き換えてしまうために裏切られるという概念自体が存在しないに等しい。そんな狂った精神で怒りのように指向性のある強い感情を生み出せる余裕はないはず。
だから「もっと期待しよう!もっと感情を出そう!」なんて言いたくない。人間らしく生きることは簡単なことじゃない。例え行きつく先がゾンビだとしても当人にとってそれが幸せならば外野がとやかく言う事ではない。

期待されてるという意味で怒りの矛先になることはある意味幸せなのかもしれないが、行き過ぎた怒りは相手だけでなく自身をも焼き尽くす事は留意してほしい。



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