ぶつからなきゃ伝わらないこともある

私はソードアート・オンラインが好きだ。
以下にもラノベ然とした雰囲気と厨二要素で煙たがられてる印象はあるが、良い所は沢山あるので多くの人に知ってもらいたい作品だと思っている。

まず心理描写がストレートかつ丁寧で、多くの人にとってキャラの本心が理解しやすい。もちろんそれがすべてプラスに作用する訳ではない。しかしこの作品に登場する多くのキャラ、それらの関係性と掛け合いを最大限楽しむ上ではプラスの要素がとても大きい。
作中では心に沁みる言葉が幾つも登場し、どれも発したキャラの個性を際立たせると同時に、受け止めた読者・視聴者の人生の指針にもなってくれる。直球だからこそ心に響く、混じりけの無い強い意志が作品の端々から見える。
ご都合主義、展開が読めるなどの意見もあるが、よく言えば王道。安心感すら覚える展開の中にもドラマ、キャラの心境や意思がキッチリ組み込まれ、それらは王道の展開に沿い視聴者にただただ真っすぐ伝えられる。
そして基本全員常識人に見えるが、大抵キーマンはいろんな意味で肝が据わりすぎているし、頭のネジも普通に飛んでいる。噛めば噛むほど面白い。
着地点は分かっても、過程で毎度裏切られ、丁寧な描写でキャラへの感情移入もしやすい。そして端々で人生にとって大切な言葉を投げかけてくれる。今でも自分の大切な作品だ。


と、前置きが長くなったが本題に移る。
タイトルにもあるが、言ってしまえばコミュニケーションって大事だけど難しいという話。タイトルの言葉はソードアート・オンライン作中で登場した言葉だ。

この言葉に出逢った当時は意味がまだよく分かっていなかった。少なくとも今よりは分かっていなかった。今もまだ完璧には分かっていないだろう。「ぶつかる」という言葉の重みを実感するには、「ぶつかる」ことを日常的にしないといけないのかもしれない。タイトルの言葉を発したユウキはどこまでも真っすぐに生きていた。
思うのは、今現在「ぶつかる」機会はほとんど無くなってきている気がするということ。友達と「ぶつかる」ようなことは、無い方が嬉しいとみんな思ってる。意見が合わなければ譲り合いか住み分けがトレンドだ。家族と「ぶつかる」ことができるほど距離が近い家族も今や少ない。「ぶつかる」事ができる恋人を作ることもマッチングアプリだけでは中々厳しい。
「ぶつかる」というのは本音、それぞれの譲れないもの同士を吐き出し合って、互いの理解を深めるという作業だ。そこには単純な好き嫌いよりもっと熱い感情が渦巻いていて、互いに言葉や行動では伝わらない本心や信念を深く伝えることができる。
一方で、その作業には普段の対話よりも一層強いエネルギーが必要になる。自分の中で蠢く譲れないものを押し出すエネルギーと、相手のそれを受け止めるエネルギー。「ぶつかる」ことで生じた摩擦も受け止めないといけない。
昨今対話にかけるエネルギーはどんどんと省エネ化が進んでいる。多くの若人は面と向かって話すことの方が少ないと思う。大抵は文面で済ますし、それがリアルタイムでないことも当然のこととして受け入れている。自分宛かも分からない文章に返答を送ってそれとなく会話することすら当然で、最早会話とは何か分からなくなってきた。
皆傷つきたくない。故に付かず離れずの間合いを保ちたくなる。しかし撫でるようなコミュニケーションでは伝わらない事も多い。過度に傷つくことを恐れていては互いに理解し合えない。自分を伝えられない。

自分を伝えるには傷つけること、相手を知るには傷つくことへの覚悟がまず必要だ。だから自分は日々少しづつでも、人と「ぶつかる」べきだと考えている。いきなり動くと筋肉痛になるように突然の衝突はダメージが大きい。本音を漏らし、相手の言葉を受け止めることへの耐性を日頃からつけておくのが大事だと思う。
「ぶつかる」。本音の押し合いと表現したが半分喧嘩だ。抵抗があるのは当然。だけどもそこでしか伝わらない本心が必ずある。隠しているもの、秘めているものがあるなら一度曝け出してみてはどうだろう。

そしてタイトルの言葉には続きがある。「自分がどれくらい真剣なのか、とかね。」 思っていても示さなければ熱は伝わらない。その熱さも持っている自分以外には分からない。もしそれが火傷しそうなほど熱いのなら、いっそ全部巻き込んでしまった方が楽しくないか?

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