印象は変えられるし、変えなければいけない

人から受ける印象と事実が一致しないことは度々ある。「賢そう」な人のテストの点がダメダメだったり、「元気そう」な人が毎日泣くほど苦しんでいたり、「何も考えてなさそう」な人が全てを裏から操っていたり。何かしらの形で経験があるのではなかろうか。

ではこのギャップは何によって持たされているのだろう?もちろん単に演じている場合もあるだろうが当人に全く自覚のない場合も多い。
これはきっと強烈な印象による補完のせいだろう。言ってしまえば偏見。こういう特徴を持つならこうであるはず、と見えない事実に対して情報を補完している為に実際の事実が見えた時、補完した情報と異なると違和感を感じる。語弊を恐れず言うなら無意識下の偏見とのギャップだ。
見えない事実に対する補完という特性を考えれば「○○できそう」的な印象を他のプラスの印象を用いて意図的に作り出すこともできる。具体的には第一印象をプラスにして後はできるだけマイナスの印象を与えなければ良い。第一印象は強く記憶に残りやすい為そこでプラスの印象を与えてしまえばボロを出さない限り勝手に評価は上がり続ける。あまり喋らない人の評価が異様に高いのはきっとそういうことだろう。
逆に見える事実が全てマイナスだとずっと下がり続ける。意図的に下げる事で印象の裏をかくこともできるだろうが現代社会でのメリットは薄いだろう。学校でテストの点と口調が少しキツイだけで人格まで否定されていた彼を忘れない。彼は不器用なだけで野心は本物だった。その野心も罵詈雑言に晒されたせいで段々すり減ってしまうようで見ていて苦しかった。

こうなると「何をしてるかわからない人」は評価がプラマイ0になっている人のことだろう。分からないところを自身の評価によって補完するのだから評価できていない相手のことは補完しようがない。ただ真っ当に分からないとしか言いようが無くなる。
これには情報が少なすぎて評価できていないパターンと情報は多いが出てきた情報によるプラスとマイナスの評価が完全に釣り合ってるパターンの2パターンある。前者は強い印象を与えることである程度コントロールできるが後者の状態を変えるのは難しい。ちょっとした出来事だと今まで積み上げてきた印象に埋もれてしまう。それを超えていくような評価を上に積み上げないと付いている印象は覆らない。

見えない情報が見えるようになった瞬間それまで印象によって補完されていた情報は事実へと上書きされ、評価に大きく影響を及ぼす。ガタイのいい人が実は運動神経が悪いと分かると急に温厚に見えたり、非行少年の優しさが垣間見えるとそれだけで親近感を感じたりする。「強そう」「性格悪そう」なんて印象は過去のものとなってただの偏見でしかなかった事を自覚するだろう。
こんな心理が大小複雑に絡まりあって人間関係は成り立ってるのだろう。信頼関係もこの一種だと思う。見えない部分を完全に詳らかにするのはあまりにクドく、経験と偏見によって情報を補完しながら相手の人となりを推測しながらでないとコミュニケーションは難しい。
ただその推測はあくまでも推測であってそこに真実も正しさも微塵も存在しない。そのことを自覚していない人が少し多いような気がしている。


血肉とします