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ダフト・パンク年表【増補版】②:『Discovery』期 2000-2004

『Discovery』期:2000-2004

2000年

●11月13日 「One More Time」リリース。世紀末~新世紀到来のムードを捉えた祝祭感あふれるサウンドで世界的に大ヒット。この時点でダフト・パンク史上最大のヒット・シングル(*注27, 28)

●11月 松本零士がスーパーヴァイザーを務めた「One More Time」のMV公開。フランスでは松本零士の『宇宙海賊キャプテンハーロック』が放送されていたので、ダフト・パンクの2人も幼い頃から松本の作品に影響を受けていた(*注29)

2001年

●1月20日 『The Face』誌にてロボットのヘルメットを被ったビジュアルを世界初披露(*注30)

●2月26日 2ndアルバム『Discovery』リリース。ハウス・ミュージックの枠を超え、多彩なジャンルを包括した一大ポップ・スペクタクルを提示(*注31)

●ダフト・パンク曰く「1999年9月9日にスタジオが爆発してアンドロイドになった」ため、このときからロボット姿で全ての取材や撮影に応じるように(*注32)

●ダフト・クラブという会員制オンライン・サービスがスタート。『Discovery』に封入されていたメンバーズカード記載の16桁の番号を公式サイトに入力すると、リミックスやライブ音源などにアクセスできるという仕組み(*注33)

2002年

●GAPのCMに出演。女優ジュリエット・ルイスとの共演。曲は「Digital Love」が使われた

●10月1日 ライブ・アルバム『Alive 1997』リリース。97年11月8日に開催された〈Daftendirektour〉の英バーミンガム公演を収録

2003年

●5月18日 『Interstella 5555: The 5tory of the 5ecret 5tar 5ystem』がカンヌ国際映画祭で上映。『Discovery』全編に松本零士がアニメーションをつけたもの(*注34)

●12月2日 ダフト・クラブから配信された音源をまとめた『Daft Club』リリース



【注釈】

*注27 「One More Time」は世紀末の2000年にリリースされたこともあり、そのタイトルは非常に象徴的に受け取られた。ただダフト・パンク自身は、「長いブランクを経てダフト・パンクが”もう一度”やってくる」という意味合いでタイトルをつけたと各所で説明している。とは言え、「One More Time」の歌詞全体を読むとクラブ・ミュージックやダンスフロアの喜びを表現しているのは明らかであるし、『Discovery』は新世紀に向けて20世紀のポップ・ミュージックの記憶を「もう一度」蘇らせようとしたアルバムだったとも捉えられる。トーマとギ=マニュエルは受け手の解釈に任せているが、実際は「One More Time」という言葉にはもっと多面的な意味合いが込められているのだろう。

*注28 『Rockin' On』2001年3月号のインタビューで、「One More Time」のブレイク・パートが一般的なクラブ・ミュージックではありえないほど長いことを指摘されたトーマは、「あのトラックの大事なところのほとんどはあのブレイクなんだよ」としつつ、曲の最初のパートは現在、ノスタルジックな響きのブレイク・パートは過去、そしてそこから再び力強いビートが戻ってくる後半のパートが未来を表している、と説明している。(出典:『Rockin' On』2001年3月号

*注29 『bounce』2001年3月号にはダフト・パンクと松本零士の対談が掲載されている。そこでダフト・パンクの2人は、松本零士への思いをこのように説明している。

僕たちが5、6歳ぐらいの時に『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』がフランスのTVでも流れていて、それが僕たちのいちばんのお気に入りでした。まずとにかく絵が素晴らしかったんです。ものすごくエレガントで、とても上品だったし、華麗。だけどストーリーも単純ではなかったのがすごく良かったんです。(略)松本先生は僕たちが知っている中でいちばん偉大な漫画家であり、僕たちのいちばん強烈に残っている記憶として先生の作品がありました。いままでスパイク・ジョーンズやミッシェル・ゴンドリーなど優れたディレクターたちと組んできたので、今度は子供のころからの夢をここで実現させようと思って、松本先生に頼むことにしたんです。

『bounce』2001年3月号

*注30 『DJ Mag』が2021年8月に公開した記事「The real story of how Daft Punk became the robots」では、『The Face』での撮影を担当したフォトグラファー、ルイス・サンチェスの発言が紹介されている。

当時、『The Face』はかなり評価が高い雑誌だったんだ、すごくクリエイティブだったからね。そして、彼ら(ダフト・パンク、ダフト・パンクのPRエージェンシー、『The Face』)はそこでロボットを披露したかったし、レコード(『Discovery』)を披露したかった。だから、すごくスタイリッシュな作品になったんだ。

『DJ Mag』The real story of how Daft Punk became the robots

*注31 『Discovery』というタイトルには、ダフト・パンクが解釈の正解を押し付けるのではなく、リスナー一人ひとりが自分なりの答えをアルバムの中から「見つけて」ほしいという意味合いが込められている。また、『Discovery』ではソング/ボーカル・メロディを軸とした曲作りへと移行したことによって、『Homework』のようにまず身体に訴えかけるものではなく、感情に訴えかけるものにしたかった、と各所で語っている。

*注32 『Interstella 5555: The 5tory of the 5ecret 5tar 5ystem』の日本盤ボーナス・コンテンツとして収録された以下のビデオ・インタビューでも、アンドロイド/ロボットになった経緯が語られている。

「99年9月9日にコンピューターのバグにやられて機材が爆発してしまって、気が付いたらこうしてロボットになってたんだよ。(略)僕らの中にはコンピューターと、脳に埋め込まれたチップと、まだ鼓動を続けている人間の部分があるから、(『Discovery』は)それぞれの要素が混ざっているアルバムだ。

『Interstella 5555: The 5tory of the 5ecret 5tar 5ystem』日本盤ボーナス・コンテンツ

またペドロ・ウィンターは、『ダフト・パンク ドキュメンタリー UNCHAINED』の中で、当時トーマが2000年問題(2000年になると世界中のコンピューターが誤作動して大問題になるのではないか?と90年代末に騒がれていた)に夢中だったことも、ダフト・パンクがロボットになった理由のひとつに挙げている。(出典:『ダフト・パンク ドキュメンタリー UNCHAINED』

*注33 当時はナップスターの普及を筆頭に、音楽の違法ダウンロードが大きな社会問題となっていた。そこでダフト・パンクは、ナップスターと戦うのではなく、ナップスターよりも魅力的なサービスを提供することを考えた。この試みが慧眼なのは、ダフト・クラブにはまずCDを買わないとアクセスできないこと。アーティスト、リスナー、レコード会社の三社にとってメリットのある仕組みとしてダフト・クラブは構想されている。(出典:『Rockin' On』2001年3月号

*注34 この映像制作のため、2000年7月から5回ほど、毎月のようにダフト・パンクは来日していたという。(出典:『relax』2001年3月号)



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