3.11の日に想うこと

2011年3月11日のあの日、あの時、私は原稿を書いていました。当日、締め切りを抱えていたのです。

人生で体験したことがないほどの激しい揺れを感じ、テレビでは津波でたくさんの家が押し流されているのを見て、帰宅難民になった知人が家に泊まりに来て、世の中が大変なことになっていたにもかかわらず、私はパソコンに向かってせっせと文章を書いていました。

冷静に思い返すと、その日に原稿を送ったところで、先方も読む暇などなかったです。実際、その時書いていた原稿は、とうとう世に出ることはありませんでした。一銭のお金にもなりませんでした。全くの無駄だったのです。

本当は、目の前の締め切りに集中するよりも、もっとすべきことがあったのかもしれません。それなのに、私は事態の重大さを認識するのに随分時間を要しました。そういう人間は、私だけではないでしょう。

大変な出来事というのは、その時、その瞬間は、案外気づかないものです。当時者としてその渦中にいるのに、実感を伴って理解するのに時間がかかるものです。随分経って遡ってみて、ようやく「あれは歴史的な日だった」と気づくのです。歴史上の区切りとなるような事件・事故・出来事も、大半はそんなものかもしれません。

その時、その瞬間に、いかにして当時者意識を持てるか。自分の置かれた状況を冷静に判断できるか。これはなかなか困難な問題です。

今、「平成」という時代が粛々と終わろうとしています。戦争に巻き込まれることもなく平和な時代だった、と言えるのかもしれません。けれど、ずっと経ってから振り返った時、私たちは平成という時代をどう捉えるのでしょうか。時間が経つことで、平成という元号の持つ価値は変わるかもしれません。

今、平成を生きている当時者である私たちが気づかない意義が、いずれ平成という時代に付加されるとしたら……。私たちが日常だと思っているものは、いずれ日常ではなくなる可能性がある、いや、きっとそうなるに違いないのですから。

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