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第17回 神戸・新開地「この街から離れる」

さまざまな人を見て育つ

私が育った新開地・福原界隈は、当時は神戸でも有数の映画や興行を中心とした娯楽の街であり、かつての遊郭街を背景にした歓楽地でもあった。

繁華街や歓楽街は普通の人にとっては遊びに行くところ、楽しみを求めて訪れる場所だろうが、私にはそこがホームグランドだった。

歓楽街に住む人々にとっても日常生活があり、商店主、職人、飲食業・サービス業に従事する人たちや、街のアウトローも隣り合って暮らしていた。
地方出身の若い人たちも多く、何で稼いでいるのかよく分からないオジサンもいた。

日本経済が高度成長の坂を駆け上がる時期でもあったので、新開地の南にあった川崎重工、三菱重工の造船業や神戸港関係の仕事も活況を呈していた。
街全体にエネルギーが渦巻いていて、新開地本通りも多くの人が行き交っていた。

夜になると、泥酔した客が路上で喧嘩する場面も何度となく見てきた。
喧嘩を止めに入った警官が酔っ払いに地面に投げつけられた姿を見て、周りの野次馬が歓声を上げた場面は今でも覚えている。

若いのに街を闊歩して豪勢に遊ぶ人もいれば、朝早くから井戸水が出るところで食器洗いや洗濯をして、夜は遅くまで飲食店やバーへの配達に追われていた酒屋の兄ちゃんたちもいた。
自宅の薬局の前には酒屋が2軒並んでいて、片方は個人の自営だったが、もう一方は、多くの従業員を雇って酒屋だけでなく幅広く商売をしていた。           中学を卒業した10人ほどが、自宅前にあった酒屋の別棟の部屋で過ごしていて、よく遊んでもらった。                     『少年マガジン』や『少年サンデー』などの週刊少年漫画雑誌や『週刊大衆』『アサヒ芸能』などの大人の週刊誌も万年床の上に無造作におかれていた。
わずかな収入から地方にいる親に仕送りをしている人もいて、つつましい生活ぶりだった。若い人の生活の派手さ加減でも両極端な世界が混在していた。

この神戸・新開地界隈は明治維新後の新興地域なので、いろんな土地からさまざまな人が集まってきていた。差別や暴力といった世界とも無縁ではなく、社会のいろいろな面が凝縮されていた街だった。

「誰がエエもんか、ワルもんかは分からない」

そこで生活する子どもたちも街の刺激から影響を受けていた。

近隣では、会社員や公務員はほぼ皆無で、周りの友達も、八百屋の○○君、パーマ屋の○○君、氷屋の○○君、自転車屋の××さんなど、家の商売が呼称の一部になっていた。
ちなみに私はクスリ屋の△△君だ。
旅芸人の子どもは小学校に転入してきても短期間で転校していった。戦後に住み出した人が多かったのか、祖父母がいる家庭は少なかった。

小学生の頃に友達の家で遊んでいると、彼の父親である親分が若衆を大声で叱り飛ばしていた場面に遭遇して震え上がったことや、二号さんを隣において友達の父親が母親を激しくなじっているシーンに接したこともあった。
私たちにやさしい彼の母親が責められている姿を見て、その父親に強い憤りを感じた。同時に友人の悔しそうな顔も忘れられない。

その母親が美空ひばりの「悲しい酒」のレコードを聴いていた姿を覚えている。
後年、生命保険会社で営業職員とカラオケに行った時に、私より年配の女性たちは最後には美空ひばりの曲で〆るのが定番だった。その度に彼女の姿が想い出された。

近所には、「浮世風呂」で働く女性たちが住んでいる家があった。
自宅前の喫茶店と酒屋の別棟との間の路地を抜けた先にあった。
彼女らはうちの薬局にもよく買いに来てくれた。
浮世風呂の経営者の子どもと、そこで働く彼女たちの子どもが同じ小学校に通っていた。詳しくはわからなくても何かデリケートなことであることは認識していた。

一方で、子どもたちは周囲の刺激に対して図太い面も併せ持っていた。
新開地にある映画館やゲームセンターに入り浸っている友人がいて、彼らは小遣いで串カツやコロッケを店前で平気で食べていた。
夜遅くまで働いている親が多く、子ども同士で遊んだり、銭湯で長い間しゃべったりしていた。
私も中学生になると外食の機会が増えた。

ゴンタな兄ちゃんたちは、家の二階から水をたっぷり入れた風船を通行人に投げつけて、それが破裂して彼らが驚くのを喜び、夜になれば酔っ払いのおじさんのお尻を後ろから蹴り上げて、「こらっ!」と追いかけられるとアパートに逃げ込むといった遊びに興じる猛者もいた。

そのアパートの階段が急で手すりもないので酔っていると上がれないのである。
本気で怒っているおじさんが相手なので傍で見ているだけでもスリルを感じた。

以前にも書いたが、「詐欺師のおっちゃん」と呼ばれていたオジサンは、普段は詐欺まがいの話ばかりをしていた。
一方で、彼は近所の両親が蒸発した兄弟に金銭的な支援をしていると噂されていて、私の母親を含めた周囲の人たちの評判は悪くなかった。

「誰がエエもんか、ワルもんかは分からんなぁ」と子ども心にも感じていた。
近くの湊川神社に銅像として立っていた水戸黄門のように勧善懲悪というわけにはいかなかったのである。

各人がそれぞれ違っているというだけでなく、一人の人間の中にも矛盾や対立するものを抱えていることを何となく感じていた。
そのため「全く正しいこと」や「絶対間違っていないこと」は実際にはあまり役に立たないという感覚が今でも私の中にある。
文章を書くに際しても、自らの見解を展開する前に、多くの人の考え方を押さえておきたい姿勢にもつながっている。

「地元に留まっていてはいけない」

20歳過ぎまで、新開地・福原界隈で過ごした経験が、私自身の考え方やモノの見方に大きな影響を与えている。
特に中高年以降になってそれを思い知らされた。

美術家である横尾忠則は、大人になってからの経験は知識の延長で、自分にとっての創作とは、10代までに溜め込んだ言葉にできない思いを吐き出し続ける行為だという。
「いまも故郷の景色に居座って、そこから一歩も出ていないという感覚があります」と語っている。

横尾忠則と私とでは、理解の深さは全く異なるのだろうが、私自身も子どもの頃の興味や体験に深く規定されていると感じている。
しかしずっと地元に対する愛着を持っていたわけではなく、15歳の中学3年生の頃には「ここに留まっていてはいけない」という気持ちも生まれていた。

前の第15・16回の文章では、15歳の時に受けたカルチャーショックのことを書いた。
いわゆる阪神間モダニズムと神戸新開地界隈の下町の雰囲気の違いに戸惑ったのである。しかし本当は、学力の格差に強い衝撃を受けていた。

地元の神戸市立楠中学までは全くといっていいほど勉強をしなくても何とかなったが、高校になるとそれでは立ちいかないことを思い知らされた。
灘区の山手にあった兵庫県立神戸高校に入学してすぐの実力テストでは、真ん中以下の成績だったのである。

当時、学業がおぼつかないことにショックを受けた理由には前段がある。
先ほど友人の家庭のことを少し書いたが、私の実家も平和で波風の立たない家ではなかった。

父親が非常に自分勝手で、母親と私と妹3人との折り合いが悪かった。
私は将来は母親と一緒に家を出て生活することを考え始めていた。そのためには自分自身が何とか生活力を付けなければならなかった。

小学校から中学校までの5年間、自分なりには野球に一緒懸命取り組んだ。
しかし体力やセンスのなさはどうしようもなく、甲子園の常連校だった報徳学園や育英高校に進んだ先輩の様子を見て、プロやノンプロでやれる力量がないことはすぐにわかった。

生活力を付けるといっても15歳の自分にできることは思い浮かばなかった。当時は少年が働ける場所自体が少なくて一番ポピュラーだったのは新聞配達だった。
ただ私の場合は、両親が薬局を営んでいたので当座の生活に困ることはなかった。ポイントは、数年先の見通しをどうつけるかということ。神戸新聞の求人欄を見て母親が働ける場所もほとんどないことは分かっていた。

現在の神戸市立湊翔楠中学校の正門。
2011年に旧神戸市立湊中学校と旧神戸市立楠中学校の統廃合により誕生した

楠中学校の卒業の頃から、学力を高めてレベルの高い大学に入学して将来の道を切り開くしかないと感じ始めていた。
そのため高校入学時の実力テストの結果に強いショックを受けたのである。

甲陽学院の友達に話を聞く

当時は、小学校から私立の中学に進んだり、越境して別の中学に行ったりする友人もいた。一緒に少年野球をやっていたメンバーが中学にいなくなり、神戸高校に入学するとまた同窓生になった例もあった。
それに対して私は15歳までは学校や勉強には全く無頓着だった。

3人で家を出るにしても関西にいることが必要だったので、京都大学法学部を目指すことに決めた。
司法試験に受かれば弁護士として神戸に事務所を持つことができる。うまくいかなくても関西系の企業や神戸市役所に入るにも有利に働くだろうと計算した。
要は「ツブシが効く」と考えたのである。

当時京都大学には毎年2500人、法学部には330人が入学していた。兵庫県全体の同学年の中学生のうちプロ野球選手で活躍したのは報徳学園中学の松本匡史選手一人しか知らない。彼は巨人に入団して盗塁王にもなった。

プロ野球選手に比べれば、京都大学に入れる確率は圧倒的に高い。2500人もいれば、裏口から入学する人や手を回せる手段があるかもしれないと当時は考えていた(アホな15歳でした)。

医学部も頭に浮かんだが、国公立の受験のレベルは難関であるし、私立の医学部では卒業までに3000万円必要と言われていた。
また医師の仕事にはそれほど魅力も感じなかったので、高校では理数コースではなく一般クラスを希望した。

当時(今もであるが)、京都大学に多くの合格者を輩出している甲陽学院に中学から通っていた小学生時代の同級生N君の自宅に話を聞きに行った。
高校1年生の1学期か夏休みだったと思うが、彼の話では数学は高2の内容がほぼすべて終わっているという。そんなに先に進んでいるのかと驚いた。
自分が中学3年間をいかに遊んで過ごしたかを思い知らされた。

義務教育の中学3年間のうちに、高校に上がって学ぶ教科を先にこなして、余裕をもって大学受験に臨むのが甲陽学院のやり方だと理解した。
目標が大学入試の合格であれば、非常にリーズナブルだと感じたのである。頭の良さよりも要領の点がポイントだと理解した。
それでもN君は、灘高校はもう少し早く進んでいると話していた。

「受験も所詮は要領でしょう」?

私は京都大学法学部に決めていたので、そこから逆算して過去の入試問題を何度も何度も繰り返して問題のレベルに慣れることを意識した。
おそらく毎年の試験問題を作成しているのは同じ先生やグループである可能性が高いので、まず相手の手の内を知ろうとしたのである。
同時に過去の京都大学の受験問題に近いレベルの参考書を探した。英語は長文の読解力が必要だと判断したので、当時のZ会の通信教育に取り組んだことを覚えている。

また毎年発表される京都大学の学部別の合格最低点を強く意識していた。
とにかく合格最低点を下回らないことがすべてだ。上位で合格する必要はなく、330人合格者がいれば330番で十分なのである。

今でも○○大学に××高校から何人合格したかが週刊誌などで大きく報道されている。それに比べると、どのように学べば大学に合格できるかという勉強法やテクニックについてはあまり論じられない。

周りでは、予備校などが行うテストの偏差値結果に基づいて受験する大学を選択しようとする人が多かった。
しかし受験する大学のレベルや試験問題の傾向が異なるのに、他人との比較に基づく偏差値をもって合格可能性を測ることは大丈夫なのかと考えていた。

かつて映画『兵隊やくざ』で、大宮二等兵(勝新太郎)が、敬愛する有田上等兵(田村高広)に対して、「軍隊なんて所詮要領でしょう」と言い切った発言が記憶に残っている。
それを援用すれば、「受験なんて所詮は要領でしょう」と割り切るべきではないか。

冒頭、新開地界隈の住民の特徴で述べたように、人のありようはそれぞれ異なっているので、受験勉強もその人にあったやり方を工夫した方が良い。
またそもそも受験勉強で測ることができる能力は、暗記力、言語的能力、数理解析力など人の能力全体から見れば一部分にすぎない。身体的能力、音楽的センス、対人関係力などは顧慮されないのである。

一般には、受験で測られる能力が高く評価されすぎている。今から考えれば、私自身はそこを狙ったともいえるのであるが、とにかく「一律に頑張る」という姿勢はうまくないと感じていた。

15歳は街を離れる転換期?

私にとっては、15歳は一つの転換期だった。
シニアに対する取材では「中学までの同窓会と高校以降の同窓会では地元に足場を置いているかどうかの違いがある」と語る人は少なくない。ただその内容を直接文章にしている例はあまりない。

コラムニストとして活躍された小田嶋隆は、東京の典型的な下町、赤羽で育った。
小田嶋は「将来大学に進学する子供たちは、高校に入学した段階で、すでに地域に紐づいた『地元の子供」であることをやめている」「15歳の段階ですでに産業社会に属する企業戦士の仕草を身に付けている」と指摘している(『諦念後─男の老後の大問題』(亜紀書房)p78-79)。

ここまでスパッと割り切れるかどうかは別として、私自身の15歳の想いの本質をついている。
地元の神戸新開地界隈との関係性はこの時期に大きく変わってきたからである。

また小田嶋は「進学校に通う高校生は、地元から離れ、新たな居場所として出身都道府県内の偏差値序列に沿って再分類され、その学力ランキングのうちの自分の学力に見合った階梯にぶら下げられる」と述べている。
周囲の同級生に対して私が感じていた疑問を言い当てている。

私は15歳の時点で、生まれ育った地域だけではなく、地元の同級生とも離れていく感覚を味わった。
高校1年生の時に近所でパンを買おうとすると、カウンターの奥から店員の同級生αさんから声をかけられて驚いた記憶がある。

70年代初頭でも2~3割は中学を卒業してすぐに地元で働いていた。卒業を区切りに彼女とは何か違う世界に来たような気がした。その数年後に三宮で着飾ったαさんの姿を見た時はなぜか嬉しくなった。

当時は映画「女番長(スケバン)シリーズ」が流行っていた。
地元の駅で見かけた同級生βさんの姿は、上着の丈が短く、足首まであるロングスカートの制服を着て、べらべらの薄い学生かばんをもってダルそうに歩く、その映画の主人公のようだった。

数年後、私が就職活動で会社を廻っている時に、彼女は訪問先の金融機関の受付嬢として私の前に現れた。いきなり笑顔で声をかけられて、初めは誰か分からなかった。
落ち着いたルックスで上品な物腰だったので年上に思えたのである。「こんなお姉さんは知らんでぇ」という感じだった。
彼女も私と同様、どこかのタイミングで地元と離れたのだろう。

20代で会社員生活を送っている時に、阪急電車の車内で中学時代のΓ君に出会った。どう見ても堅気の人とは思えない風体のお兄さんと一緒だった。
私に会うなり、「楠木もサラーリマンか、俺と一緒やなぁ」と語りかけてきた。

彼の派手なミドリの背広を見ながら「その背広の色見たらは同じサラーリマンには思えへんなぁ」と応じたのだが、「そんなこと言うなやぁ、お前は補導された時も、よく俺の話を聞いてくれたなぁ」
「?????」
「お前ぐらいやったで」
「????」

私には全く記憶がなかった。
卒業して10年以上経っていたので、私が忘れているのか、彼の中で勝手に物語が作られているのか、分からなかった。

たしかに同窓会で昔の話をしていても、強く記憶に残っていることが、相手にはそうでもないことはよくある。
私のことだから「補導されたときにはどんな気持ちやった?」とかひつこく聞いていたのかもしれない。真偽の程はもう分からない。

彼がお兄さんと電車を降りた後で、「俺らが一緒なんは当たり前やろ」と私はつぶやいた。
その後、緑色の背広を購入した。それを着て生命保険会社の営業所の朝礼で話していると、職員から「郵便局の人かと思った」と言われて大笑いになったことがある。
Γ君の背広を地味にしたら郵便局員と間違われたのである。

「お前は暗くなかった」

中学3年生までは地元で遊びまわっていたので、いきなりすべてを切り替えることはできなかった。ただ通った神戸高校は灘区の高台にあり、高校の同級生と会うのも三宮が多くなっていた。

小田嶋隆が言うように、高校生になると地元の子どもからは自然と離れていった。同時に将来のことを考えて勉学に取り組まなければという気持ちもあった。

兵庫県立神戸高校の正門

神戸高校に入学が決まると、野球部の顧問の先生から「春休みから練習に来ないか?」と誘ってもらったが、うやむやに返事をして結局参加しなかった。

中学を卒業した1970年の3月から9月まで「人類の進歩と調和」をテーマにした日本万国博覧会が大阪で開催された。
しかし当時は万博会場を浮かれて見学する気分ではなかった。
野球などのスポーツもやらず、地元の友達とも遊ばないことで、中学時代との落差に気持ちが沈むこともあった。

高校1年生の時に夏休みの課題だった英語の小冊子のテキストを大学の英文科にいた従妹に全文訳してもらった。その訳文を参照しながら暗記するほど読み込んで、休み明けのテストでは良い成績をとることができた。
今までの遅れを取り戻そうと動き始めたのである。

当時は、高校から帰ってすぐに2時間ほど寝て、夕食を食べてから夜中まで深夜ラジオを聞きながら勉強していた。生活リズムが崩れて体調も良くないまま登校することが多かった。
年間数日は、ズル休みをして家に籠ったり、新開地の松竹座で演芸を鑑賞したり、神戸や大阪に格闘技を見に行ったりすることもあった。

高校2年生の時には、友人と一緒に神戸港に荷物の運搬のバイトに行った。
記憶は必ずしも鮮明ではないが、新開地の南からトラックの荷台に何人かと一緒に乗り込んだ。神戸港で小さな船から陸に荷揚げをする仕事だった。
当時はオイルショック前の高度成長期でバイト料も高かったのだろう。ただ完全にコンテナに移行していなかったので、すべて人力での作業だった。

荷物は重くて仕事はきついし、班長にゴミみたいに扱われた。怪我をしても保障はないだろうと思った記憶が残っている。
「やはり勉学で行くしかない」とあらためて思い直した。

また同時期に、自治会長(生徒会長)から「執行部に入ってくれないか」と声をかけられたが、結果的には断った。
「せっかく声をかけてくれたのに」と後悔して落ち込んだことを覚えている。

高校生の時には、社会学者で、早稲田大学名誉教授である加藤諦三氏の『俺には俺の生き方がある』(大和書房 1965)等の本を何度も読み返した。何とか自分を鼓舞したかったのだろう。
今から20年ほど前に、彼のゼミ生であった知人の紹介で講演前の加藤諦三氏とお会いしたことがあった。彼の若さに驚くとともに懐かしさが蘇ってきた。

中学生から高校生の頃はフォークソングが全盛だったが、「あの素晴しい愛をもう一度」の曲を聴くと、当時の苦い思いや切ない記憶が蘇ってくる。後年の2005年、映画『パッチギ!』が始まる前に館内に流れていたこの曲を聴いて、当時に戻った気持ちで観たことが忘れられない。主人公は私よりも2学年上の高校生だった。やはり名曲なのである。

昨年、久しぶりに高校2年生、3年生の各々のクラスメートと三宮で食事の機会があった。
「高校時代の俺は暗かった」と話すと、他の二人ともが「全然、そんな感じはなかった」とのことだ。格闘技の話などで周囲を巻き込んでいたとも言われて意外だった。
自分が内面で思っていることと、外からどう見えるかということにはギャップがあることに気がついた。自分を把握することはやはり簡単ではない。

30年後に再び地元へUターン

私自身も大学入学後に神戸市灘区に転居して、ますます地元、新開地・福原との関係が薄くなった。

京都大学法学部の5回生の時に司法試験は諦めて、当時大阪に本店があった日本生命と神戸市役所を受けて日本生命に勤めることになった。
就職してからは、大阪―名古屋―大阪―東京などを転勤でまわった後に関西に戻ってきた。

順調な会社員生活を送っていたが、父親との葛藤は依然として解消されていなかった。ただ彼も60歳を越えて自分が一人残されることが怖くなったのか、昔のような自分勝手な行動は自重して歩み寄りが見られた。  

結局、父親は私が45歳の時に亡くなった。その同じ日に、私には支社長から関係会社に出向の内示が出た。
それ以降は、受験や会社の仕事とは違って、人生は要領やテクニックでは乗り切れないことを思い知らされた。結果として、神戸新開地界隈の地元に戻りたくなったのである。

大学教員の時の土曜講座で、年配の受講生に「自分の葬儀で流してほしい曲」を聞いてみると、「ふるさと」が一番多かった。1914(大正3)年に文部省唱歌として発表された曲である。「兎(うさぎ)追いし かの山 小鮒(こぶな)釣りし かの川-」。日本人の心の琴線に触れるものがあるのだろう。
この歌は、「こころざしをはたして いつの日にか帰らん」で歌は終わる。志を果たせても果たせなくても、故郷は帰りたくなる場所ではないか。
地元を離れて30年以上経ってからのUターン。
それについては別稿にて書くこととしたい。





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