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知られざる建築家 光安義光と消えゆくモダニズム建築

ごきげんよう、ぶらっくまです。今回は近代建築の話題です。まずは今年2月に神戸新聞に掲載された、次の記事をご覧ください。

真珠会館 3月末で閉鎖/神戸の国登録文化財

日本真珠会館=神戸市中央区東町

 日本真珠輸出組合(神戸市中央区)は、所有する国の登録有形文化財「日本真珠会館」(同)を3月末で閉鎖する方針を決めた。組合の事務所や展示室「神戸パールミュージアム」が入っているが、老朽化で継続使用が難しいと判断した。組合はいったん隣のビルに移るが、閉鎖後の会館をどうするかは未定という。
 同会館は1952(昭和27)年、兵庫県などが真珠産業の集積地・神戸に検査や取引の拠点として整備した。鉄筋コンクリート造り地上4階、地下1階で、県営繕課の建築家みつやすよしみつ氏が設計し、神戸を象徴するモダニズム建築として評価されている。
 組合は2014年、老朽化した会館の建て替えを決めたが、計画は具体化しなかった。そこで昨年から、改修保存の可能性を含めて再協議してきたが、少なくとも現状のまま使い続けることは困難として閉鎖を決めた。
 同組合の伊地知由美子専務理事(53)は「歴史的価値や多くの人の思い出が詰まった建物。残念だが、これまでの思いを引き継いでいきたい」と話している。

2023年2月18日付朝刊記事より抜粋

日本真珠会館は、ミナト神戸の風情に満ちた「旧外国人居留地」の東南角に位置します。71年間にわたり、港町の移り変わりを見つめてきた建物です。真珠の検査などの際に必要な自然光を取り入れるため、大きなガラス窓を備えているのが特徴の一つです。

1995年の阪神・淡路大震災では館内の家具などは倒れたものの、ガラス1枚も割れず堅牢な建物であることが証明されたといいます。2005年、国の登録文化財に選ばれました。

神戸と真珠が結び付かない方もいるかもしれません。神戸は産地ではありませんが、古くから貿易港として栄えたことなどから真珠の取引が盛んに行われ、今も世界で流通する海水産真珠の約7割は、色やサイズをそろえて仮糸を通すまでの選別・加工が神戸で行われています。近年は中国での真珠人気の高まりもあって、取引地の中心の座は香港に奪われているようですが。

真珠を1粒ずつ選別して加工する作業=2020年、神戸市中央区の水木真珠

神戸で真珠産業が発展した背景には、国際貿易港だったことのほかに、真珠の養殖場が多い三重県や四国に近いという地理的条件もありました。また真珠の加工に必要な安定した自然光が、六甲山に反射して北側から得られたことも理由に挙げられます。

上の記事にあるように日本真珠会館は今年3月末で閉鎖されました。所有する日本真珠輸出組合(神戸市中央区)に先日問い合わせたところ、解体も含めて今後の計画はまだ未定で、建物は残っていますが、館内に入ることはできません。神戸新聞に残っている過去の館内写真をいくつか紹介します。

採光のための大きな窓が特徴的な4階の「真珠交換室」=2014年撮影
手すりや照明のデザインが目を引く階段部分=2014年撮影
中庭も備えていた。上部には外付けのらせん階段が見える=2014年撮影
開館当時から設置されていたというエレベーター。当時としては最新式で、昭和天皇も視察時に乗られたという=2006年撮影

私も久しぶりに会館を外側から眺めに行ってきました。

南側からの外観
東側の外壁表示も健在でした
表札のフォントもいいですね
ドアの表記にも時代を感じます
黒御影石が使われた1階部分。窓の面格子の意匠にも、モダニズム建築の精神が宿っています
「貴重な国民的財産」とあります。日本の真珠産業史の証人でもあります

ところで、モダニズム建築といえばル・コルビュジエやフランク・ロイド・ライト、日本では丹下健三や村野藤吾らが有名ですが、日本真珠会館を設計した光安義光氏(1919ー99)の名をご存じの方は少ないかもしれません。理由の一つとして、光安氏が兵庫県営繕課(当時)の職員、個人として取り上げられることが少ない公務員建築士だったことがあるとみられます。

くしくも、日本真珠会館が閉鎖されるのと時を同じくして、光安氏が手がけた別の建物の取り壊しが決まりました。設計者の名は知らなくても、その建物は多くの兵庫県民が知っている、兵庫県庁舎です。

兵庫県庁舎1、2号館解体/耐震不足、26年度から

兵庫県庁1号館=神戸市中央区下山手通5

 兵庫県は3月29日、本庁舎2号館と議場棟で実施していた詳細な耐震診断の結果を発表した。阪神・淡路大震災級の直下型地震が発生した場合、ともに倒壊の恐れがあるという。先行して実施した1号館でも同様の結果が出ており、被災後の継続利用は難しい。職員は2025年度中に近隣の県施設に移り、1、2号館は26年度から解体する。跡地は緑地化し、広場やイベント会場として活用する方針。
 県は解体準備を進める一方で、職員の働き方改革に取り組み、新庁舎建設の必要性を見極める。
 本庁舎を構成する主な建物のうち、新耐震基準で建てられたのは3号館(1990年築)のみで、1号館(66年築)と2号館(70年築)、議場棟(70年築)は旧耐震基準で建てられた。
 95年の阪神・淡路大震災後にそれぞれ耐震補強を施したが、コンクリートの劣化などで老朽化が進行。18~19年に実施した再度の診断では、自治体庁舎など防災拠点に求められる強度の目標値を下回った。
 さらに1号館について、大規模地震で想定される地震波を使い、建物がどれほど変形するかを詳細にシミュレーションした結果、直下型地震では倒壊の可能性があると判明。南海トラフ巨大地震のような長周期地震に対する耐震性能も、国の基準を満たしていないことが分かった。2号館と議場棟についても昨年秋から同じ手法で診断し、同じような結果が出た。
 移転先は3号館や近隣の県公館、生田庁舎を想定。1~3号館では現在、約3千人の職員が勤務するが、テレワークの推進で出勤者数を6割減の1200人まで減らし、この3施設に収容する方向で検討している。議場棟については県議会と協議する。
 1、2号館の解体は27年度中に終え、28年度から緑地として暫定利用する。災害対応の拠点としても活用する。

2023年3月30日付朝刊記事より抜粋

記事にある県庁舎1~3号館はそれぞれしゅんこう時期が異なりますが、「三つ子」のように並んで立っており、光安氏が手がけたとされる1号館の設計が2、3号館にも踏襲されています。

県庁は災害時の対策拠点ともなるため、解体はやむを得ないのでしょうが、先述の日本真珠会館と同様、95年の阪神・淡路大震災にも耐えました。

取り壊しが決まった(手前から)兵庫県庁1、2号館。右端は3号館=神戸市中央区下山手通5

今回の記事のタイトル「知られざる建築家 光安義光」は、1冊の本から取っています。刊行されたのは光安氏が逝去した翌年の2000年。その本を紹介する当時の神戸新聞の記事に、光安氏の建築理念や設計した日本真珠会館、兵庫県庁に関する記述があるので、最後にご紹介します。

「知られざる建築家 光安義光」刊行/調和と機能の官公庁建築群/地域に根差した80年の生涯

 神戸・元町の北側、諏訪山を背にして建つ、幅広いこげ茶色のビル。おなじみの兵庫県庁舎だが、その設計者を知る人は少ない。光安義光。神戸をこよなく愛し、地域の建築に生涯をささげた建築家。昨年春に80歳で他界した彼の業績を紹介する本「知られざる建築家 光安義光」が刊行された。故人を慕う建築家らが企画したもの。出版を記念して「建築遺作展」も開かれる。奇抜なデザインばかりが目を引く現代、芸術性と機能性を併せ持つ彼の設計と、建築へのしんな姿勢が見直されている。

 「私は神戸が好きである(中略)私は神戸を動かない。地方建築家であることに誇りを感じている」。1962年に光安氏が雑誌「近代建築」に寄せた随想の一節。神戸への愛着と、地域に根差した設計活動への意欲が伝わってくる。神戸の風土を、彼は“開放的無頓着な植民地的”と称し、「そんな点が無性に私の生い立ちに合っている」と記している。

 ▽県庁の耐震性

 光安氏は19年、現在の韓国・ソウルで生まれた。東京工業大学などで学び、ビルマ(現ミャンマー)での兵役を経て、48年兵庫県に入庁。県のさまざまな施設の設計と並行して、個人的なアトリエ活動も行い、常に最先端の技術を追求した。
 初期に設計した神崎郡地方事務所や芦屋保健所などの木造建築は、いずれも取り壊されて残っていない。だが、彼が手掛けた最初の鉄筋コンクリート建築である「日本真珠会館」が、神戸市中央区の東遊園地の西側に現存。52年の完成時の姿を保っている。
 現在、会館内の一室に息子の義博さんが設計事務所を構える。今回の本のために亡父の経歴を調査中、初めて同会館の存在を知り、入居したという。「自分の作品については全く話さない人でした。真珠会館を知った時は『震災でつぶれているだろう』と思ったので驚きました」と語る。
 66年に完成した県庁舎1号館も、あの激震に耐えた。その裏には、「県庁舎は災害の救急支援センター、復興センターとなるべき建物である」という信念と、綿密な耐震実験があった。事後の調査によると、その耐震力は、81年の新耐震基準を上回るものであったという。
 また、庁舎の設計を外部に依頼する自治体が大半を占める中で、「設計から施工管理までを自前でやったのは現在でも兵庫県だけ」と、県まちづくり部住宅整備課の志方敬育さん。「県民に親しまれるような庁舎の設計は、県の人間でなければできない」との考えから県上層部に掛け合い、通例を覆した。その懸命のやり取りは、当時の知事・阪本勝氏の小説「吾輩モ猫デアル」に記されている。
 71年、県を退職した光安氏は、国立明石高専の教授に就任。退任後はアトリエで設計活動を続けた。「75歳でコンピューターを始めるなど、常に新しいものを吸収しようとしていました」と義博さん。建築への意欲が衰えることなく、昨年4月、自らが設計した神戸市西区の久野病院で息を引き取った。

 ▽本と展示で顕彰

 本では、光安氏と親交の深かった15人が、故人の思い出や仕事ぶりを語っているほか、彼の残した論文なども掲載。さまざまな角度から、その知られざる業績に光を当てている。官庁建築家として、耐久性や景観との調和を第一としながら、作家としても高い芸術性を発揮した力量が高く評価されている。また、当時の教え子たちが、多くの建築家を育てた教育者としての側面も振り返っている。
 出版の発起人である竹山清明・京都府立大助教授は「彼は売名行為とは無縁に、建築家がやるべきことをきちっとやった人。建築を志す若い人にぜひ知ってほしい」と話している。「知られざるー」は青幻舎発行。
 遺作展では、彼の作品を写真で紹介するほか、ビルマでの捕虜時代に、支給のトイレットペーパーにマラリア治療薬を使って描いたスケッチなども展示される。

2000年4月28日付朝刊記事より抜粋

〈ぶらっくま〉
1999年入社、神戸出身。私事ですが、末尾の記事は入社2年目だった私が書きました。ただ正直、当時はそれらのモダニズム建築に、個人的には特段の思い入れはありませんでした。建築は好きでしたが、よりレトロでドラマチックなネオ・ルネサンスやネオ・バロックなどの方に目が向き、モダニズムは「無機質な古い建物」と映っていたような気がします。
今回、久しぶりに真珠会館を見て(外観だけですが)、華美な装飾を排しながらもダイナミズムを内包したデザインに「シブい」「美しい」「かっこいい」とくぎ付けになりました。年齢によってもこういう好みが変化するものなのでしょうか。