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連載「中井久夫さんが教えてくれたこと」⑸⑹

※神戸新聞で2023年1月に掲載した連載記事「中井久夫さんが教えてくれたこと」を一部再構成し、再録しています

(5)時代を超えて

心の孤独に寄り添う社会へ

「中井先生から学んだことが、血となり肉となっている」と話す田中究さん=神戸市北区山田町、ひょうごこころの医療センター

 「兵庫県こころのケアセンター」(神戸市中央区)が開設されて半年後の2004年10月、台風23号が兵庫などに大きな被害をもたらした。日を置かず、新潟県中越地震が発生。翌年4月には、尼崎JR脱線事故が起きた。
 大きな災害や事故であるほど、心のケアを必要とする人は多くなる。初代センター長だった中井久夫さんのもと、スタッフたちは国内外を奔走、センターの役割は注目された。
 一方、阪神・淡路大震災で始まった精神科医らによる心のケア活動は、11年の東日本大震災でも力を発揮する。多くの医師が東北に向かった。
 その一人が、「兵庫県立ひょうごこころの医療センター」(神戸市北区)院長の田中きわむさん(66)。かつて医師としての第一歩を神戸大学医学部付属病院(神戸市中央区楠町)で踏み出した時、教授に中井さんがいた。
 「頭のてっぺんからつま先まで病気の人はいない、患者さんの健康な部分をちゃんと見なさいと教わった」。そう振り返る田中さんが大事にしている中井さんの一文がある。
 「医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない。息を引き取るまで、看護だけはできるのだ」―。つまり、ひとりぼっちにさせない。
 
 東日本大震災の発生からおよそ1週間後。田中さんは仙台市の避難所に入った。
 昼間、床にひとり、正座をしている40代くらいの男性が目にとまった。「いかがですか?」。男性は答えた。「うちは良かったんです。うちは見つかりましたから…」
 周囲には津波に流されたまま、行方の分からない人が多かった。男性は妻と娘を亡くしていたが、遺体が見つかっただけ良かったと自分に言い聞かせているようだった。
 田中さんは、男性の向かいに座った。互いに言葉はなく、ただじっと。
 「おそらく中井先生もそうしただろうな、って」
 別れ際、手を握った。男性の手は震えていた。

▼医師が治せる患者は少ない。しかし看護できない患者はいない―「看護のための精神医学」(医学書院)

中井久夫さんと最相葉月さん=2014年9月(提供)

 同じ頃。インターネット上で無料公開された文章がある。中井さんが阪神・淡路からの50日を記録した「災害がほんとうに襲った時」だ。
 電子化による公開を提案したのは、取材を通して中井さんと親交があったノンフィクションライター、最相葉月さん(59)=神戸市出身。3月11日、東京都内の最相さんの自宅も大きく揺れた。書棚から床に落ちた本の中に、中井さんの著書があった。
 改めて手に取り、「かけがえのない記録」だと感じた。「災害の種類や時代を超えた普遍的なメッセージがある」
 阪神・淡路から28年。東日本から12年。中井さんはもういない。でも、と最相さんは言う。「今も語りかけられている気がする」。たくさんの本が、言葉が、私たちのそばにある。
 この社会は誰かの孤独に寄り添えているだろうか。いま一度、耳を澄ます。中井さんが教えてくれたことを。

2023年1月20日付 神戸新聞朝刊より

 なかい・ひさお 1934年奈良県生まれ。甲南中・高、京都大卒。精神科医。神戸大名誉教授、「兵庫県こころのケアセンター」初代センター長。翻訳家、文筆家としても活躍し、2022年8月、88歳で死去。

(6)エピローグ

被災地に注いだ優しさと情熱

中井久夫さんがのこした著書の数々

 今年の「1・17」。精神科医で作家の加賀乙彦さんの死去が報じられた。
 93歳だった加賀さんは、昨年88歳で亡くなった中井久夫さんと旧知の仲だった。
 連載の最終回は28年前の2人の挿話から始めたい。
 
 阪神・淡路大震災の発生から間もない頃、東京にいた加賀さんは中井さんに電話し、ボランティアで神戸に向かうと申し出た。
 「何が必要ですか?」。加賀さんが問いかける。答えはこうだった。
 「生花を持ってきてもらえませんか?」
 被災地では、生花の入手が難しかった。加賀さんは「持てるだけの花を持って行く」と決心。黄色いチューリップなどとともに、中井さんがいた神戸大学医学部付属病院(神戸市中央区楠町)に現れた。
 「花は心理的にあたためる工夫の一つであった」と中井さん。病院のあちこちに飾ると、加賀さんにもう一つお願いをした。「学校避難所の校長のもとを訪ねてほしい」
 校長や教員は自身も被災者でありながら、慣れない避難所運営に走り回り、疲れ切っていた。加賀さんは彼らの悩み、不安に耳を傾けた。
 
 「人が気づかないことに気づくのが、中井先生の持ち味だった」と話すのは、「兵庫県こころのケアセンター」(神戸市中央区)のセンター長、加藤寛さん(64)だ。
 「気づき」は周囲に波及する。28年前、全国から集ったボランティアの精神科医たちは「被災地に花を」と生花を持ち寄った。避難所に届けた医師もいた。
 中井さんはまた、黄色の「くまのプーさん」をはじめ、たくさんのぬいぐるみを買い集めて配った。黄色は元気が出るからと。
 黄色いミモザの花を抱えきれないほど手にし、病院にやって来たこともある。
 病院の電話交換室に届けるためだった。「患者さんからの電話を一番に取ってくれるのは、電話交換室の人だから」。中井さんはそう語ったという。

▼私の研究の〝成功〟とは、一部が常識となり、忘れられることである。私はそうであることを願っている―「最終講義」(みすず書房)

43歳の頃の中井久夫さん。1977年、ドイツにて。当時は名古屋市立大学助教授だった(中井久夫教授退官記念誌より)

 取材を通じ、中井さんのさまざまな顔に触れた。優しさの一方、激しさもあった。若き日には、医局制度を批判する文章を発表し、騒ぎになったこともある。
 「スイッチを押す人だった」。神戸市中央区でメンタルクリニックを開業する小林かずさん(81)はそう評する。
 小林さんは震災直後からクリニックに寝袋を持ち込み、24時間の電話相談を始めた。被災者の悩みを聞くという使命感の一方で、疲れは極致に達し、半年を区切りにしようと考えていたら、交流のある中井さんから電話があった。
 「何をしたら続けてくれますか?」。熱のこもった言葉と支援の約束。小林さんは結局1年以上、電話相談を続けた。延べ4300の悲痛な声が寄せられた。
 
 連載の初回で、もしも中井さんが神戸にいなかったら、「心のケア」は今のように広がっていなかったかもしれない、と書いた。
 中井さんはきっと、スイッチを押したのだと思う。人を大切にすること。心を大切にすること。やわらかい笑顔で、私たちのこれからを見つめている。
=おわり=

2023年1月21日付 神戸新聞朝刊より

 なかい・ひさお 1934年奈良県生まれ。甲南中・高、京都大卒。精神科医。神戸大名誉教授、「兵庫県こころのケアセンター」初代センター長。翻訳家、文筆家としても活躍し、2022年8月、88歳で死去。