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あじさいの下



 世界で一番、あじさいが好きです。
 なかでも、ぼくのあじさいが、この世でいちばんきれいです。


 あまり大きな声では言えないのですが、このあじさいがいかに特別かを知っていただくために、少しだけ、私の若いころの話をさせてください。


 それは六月の、灰色の雨の暮れでした。
 空は、朝からひどく不機嫌そうに雨粒をたたきつけ、数分おきに地ひびきのようなうなりをあげていました。どこにいっても銭湯のなかを歩いているような、暗く、重たい一日でした。空の機嫌も悪ければ、先生の機嫌も、友達の機嫌も、妹の機嫌まで悪い一日だったのです。まるで雨雲の独裁下で自由をうばわれあえぐ人々の恨みつらみが、あらたな雨雲となって重くのしかかってくるかのようでした。
 ぼくも例外ではなく、理由もなく眉間にしわを寄せ、だらだらと自転車をこいでいました。学校指定の紺色の雨合羽の内側は、外側の倍ほどもある湿度でむしろぐっしょりと濡れそぼっていました。
 家までの通学路は、ここ数年で学校の周りにできた集合住宅街をぬけるとほぼあぜ道です。そのあぜ道にさしかかったところで、ぼくの目は、田んぼの角に取り残されたかのように植わっている、ひとかぶのあじさいに引き寄せられました。かぶ全体を覆うほど見事に濃い藤色の花をつけたそのあじさいは、離れたところから見ると紫色のちょったしたかまくらのようでした。
 ゆっくりと、泥に深く刻まれたわだちにそって、ぼくはあじさいに近づきました。近づくほどに、それはそれは大きなかぶでした。両手で持っても、手からこぼれ落ちてしまいそうなほどゆたかな花をたくさんつけていました。
「去年もここにあったっけ?」
 通いはじめてもう二年目になるこのあぜ道でしたが、こんなに目を引くあじさいの花は、どうしても記憶にありません。ですが、これほど立派なあじさいが、たった一年で育つはずもありません。
 ぼくは自転車を降り、あじさいの目の前に停めました。
 
 くちょん
 
 と、雨粒が泥をはねあげる音にまぎれてしまいそうな、ちいさな、呆れるほどかわいいくしゃみの声が聞こえたのは、そのときでした。
「え」
 思わず声をもらしたぼくは、とっさに手で口をおおい、自転車の陰に隠れるようにしゃがみこみました。泥水がお尻にはね、みるみる下着にしみこみましたが、ちっとも気になりません。手のすきまから、自分の吐くあつい息の音を聞きながら、反対の手でぎゅっと合羽の胸もとをおさえました。そうでもしないと、口か胸を突き破って心臓が飛び出してきてしまいそうだったからです。
 誓って言いますが、ぼくは自分の目をうたがいました。
 目と鼻の先にある大ぶりの葉の上に、ちょこん、とひとり、ちいさなちいさな女の子が腰掛けていたのでした。ほんとうにちいさいのです。それはもう消しゴムのようにちいさいのです。上の葉から落ちかかっている水滴と、彼女の頭の大きさが、ちょうど同じくらいの大きさでした。
 ぼくは、目だけでなく自分の頭も疑いましたし、最近の生活をふりかえり、食事のよしあしについても疑ってみました。ですが、何度目をしばたいても、目の前の女の子が消えることはありませんでした。
 それどころか、女の子はあじさいの花びらでつくった簡素なドレスのすそを、気のない様子でさわってみたり――ぼくは少しだけドキッとしました――、雨水のように透きとおった髪を、さも邪魔そうに掻きあげてみたり――ぼくは息を止めて見入ってしまいました――、水滴の鏡に映る自分の顔をのぞきこみ、ニコッと可憐に微笑んでみたり――頬にあつい血がおしよせました――、ぼくの存在にはまるで気づかず、気ままに彼女の生活をつづけているのでした。
 その様子は、ぼくのような男子中学生がのぞき見てはいけない、神聖なもののように思えました。ですから、何か悪いことでもしているような、けれどやめられない、やめたくない、どうにもおちつかない心もちだったのです。
 あじさいの下にぼうっとしゃがみこんだまま、三十分以上もそこにいたようでした。ふと我にかえって手首の時計に目を落として愕然としてしまいました。
「ああ。何やってんだろほんと」
 はげしく自己嫌悪に陥りながら、ぼくはようやく重たい腰をあげました。視線を落とすと、女の子は、やはり今いたところに座っているのでした。よく気をつけて見なければなりません。たわわに競い咲くあじさいの花の中に、彼女を見つけるのは容易ではありません。でもぼくは、もう彼女を見失いようがありませんでした。
 未練がましい心をふりきり、自転車に飛び乗ったぼくは、泥がズボンにはねるのも構わず、やみくもにこいで帰りました。



 夜、ベッドの上で、あのあじさいの下にいたちいさな女の子のことについて、ずっと考えていました。
 実を言うと、彼女とぼくの目は、あの短いあいだに幾度となく交わっていたのです。ぼくの自意識過剰でないとすればの話です。しかし残念ながら、冷静に考えれば考えるほど、ぼくはどうやら自意識過剰な思春期男子であるという結論にたどり着くのでした。
 なにしろ、あじさいの下でちいさな女の子を見たなど、まっとうな一日ではありませんから、ぼくは自分を極限まで疑って、可能性半分で推測を進めるほかありませんでした。ぐじぐじと夜中まで続けた自分会議は、次のような結論でしめくくられました。
「あの子は確かにいる。でも……あの子には、ぼくが見えていないらしい」
 目が合った(と、ぼくが思った)あとも平然と、ちいさな彼女の世界で自分の生活をつづける様子から察すると、どうもそういうことになりそうでした。


 翌日。太陽は初夏の輝きを取り戻し……とは、やはりいきません。ぼくはこの日も、灰色の沈鬱な雨の下にいました。
 空と世界はくすんだ硝子のようでしたが、ここだけは、はっとするようなみずみずしさで、周囲から浮き上がって見えました。
「あついわ!」
 蝶のはばたきのようにささやかな、しかし凛とした存在感のある声が、あじさいの下から聞こえます。
「あっつくってやってられないわ!」
 悩ましげに眉根を寄せたちいさな女の子は、ぼくの見る前で、唐突にドレスのすそをびりびりと破きはじめます。
 目をそらせ、と遠くのほうで声がしますが、そんなことできるはずがありません。爪楊枝のように細く、白く、すべらかな脚が、みるまに露わになりました。
 目をそらさなかった自分が悪いのですが、頬から首にかけてがかっと熱くほてった自分に、いたたまれない気持ちになりました。
 こんなにちいさいんだ。女子のバッグについている妖精の人形のようじゃないか、と、思ってみましたが、そんな生易しいものではないのでした。
「君っていったいなんなんだろうな」
「……こんなもんかしら?」
 放課後、いつも通り何げないふうを装って、それでも浮き立つ足を抑えきれずに、自転車を飛ばしてきました。おかげで宿題を机のなかに忘れてきてしまいましたが、それは次の日、宿題を出さなくてはならないときになってようやく気づいたほどでした。
 彼女にはやはり、人間が見えないのだということは、もはや確信するところでした。なぜなら、
「ぼくはちょっとやりすぎだと思うけどね」
 刺激的にひきさかれたドレスに対して意見を述べれば、
「やっぱり背中にもスリットをいれるべきかしら? でも届かないわ! なんてことかしら!」
 といったふうに、まったく言葉がかみ合わないのです。
 ですから、ぼくは隠れる必要がなくなったのをいいことに、彼女の部屋――一枚の大きな葉ですが――の正面にしゃがみこみ、自分の膝に頬杖をついて、堂々とのぞき見をはじめたのでした。
「あーあ、そのやぶったドレス、どーすんのさ」
 変態だな、と思いつつも、いつしかぼくはあじさいに向かってしゃべりかけるようになっていました。もちろん、実際にはあじさいの下に暮らしている、ちいさな女の子にしゃべりかけているのです。でも、誰かにこの様子を見られたとしたら、ぼくはもう弁解のしようがありません。それに、報われないことに、しゃべりかけている相手にはぼくが見えないのですから、まったく救いのないことでした。
「あら、こんにちは」
 女の子が、ぺらっとドレスをもちあげて挨拶をしました。彼女の笑顔のさきには、ちいさなアオガエルがいました。
「げこ、げこ」
 アオガエルが、彼女に向かって鳴きました。
「そお? だって暑かったのよ。あなたはいいじゃない。つるつるのまっぱだかなんだから。それより、この花びらあなたにあげるわ。うちのあじさいは甘くてみずみずしくっておいしいのよ」
 ほら、と女の子は葉の上に散らばったドレスのはしきれを拾い集めると、自分の身長の半分ほどもあるカエルに、それを差し出しました。
「げこ、げこげこ」
 アオガエルは、彼女のちいさな手ごとぱくっと口に入れ、むしゃむしゃとおいしそうに花びらを食べたのでした。ぼくはその様子に、自分でも困惑するほどの憤りをおぼえました。
「いやらしい顔しやがって、このエロガエル!」
 ぼくの気も知らず、彼女は小悪魔のように、可憐で悪い笑みを浮かべると、カエルに顔を寄せて何かを耳打ちしました。
 ぼくのなかで、熱いものがわき立ちました。
「用が済んだなら向こういけって」
 気がつくとぼくは、胸ポケットにさしてあったシャープペンシルの先を、カエルに脅すように突き出していたのでした。
 カエルは驚いたように跳びすさり、たちまち田んぼの方に逃げていきました。
 カエル相手になにやってんだ、と絶望的な気持ちでシャーペンを握ったまま頭を抱えていると、
「あはっ、あははは!」
 と、女の子の明るい笑い声がはじけました。ぼくは驚いて顔を上げました。
 パチッと、目が合いました。合った気がしたのですが、それを感じれば感じるほど、ぼくは虚しい気持ちになるのでした。なぜなら、
「あのカエルったら、なんて顔して逃げてくのかしら! わたしのあじさいに毒があるなんて、本気で信じたのかしら」
 彼女はそういって、大笑いするのでした。あとで知ったことですが、あじさいの葉や根っこを食べて中毒症状を起こした人がいるそうです。安易に口にしてはいけないのです。
 彼女はしばらく顔を真っ赤にして、嬉しそうに転げ回っていました。そんなふうに、脚をばたばたさせないでほしいのですが、ぼくの心のなかでは、でももうちょっとこっち、という許しがたい本心と、薄っぺらい良心とが、激しく葛藤をくりひろげていました。
 いつしか、ぶ厚い雲の向うで、太陽が地平線に沈んだようです。急に辺りが一段と暗くなり、ぼくはずいぶん時間が経ったことに気がつきました。
「帰らなきゃ、な」
 ぱちん、と膝をうって立ち上がると、雨合羽のなかでぐっしょりと濡れた制服が肌にはりつき、一気に身も心も重たくなってしまいました。なんだか、とても馬鹿馬鹿しいのです。ぼくは大人になるために勉強をしなくてはいけないし、年明けにはいやでもやってくる受験に、挑まなければならないのです。それなのに、見おろすとそこにはやはり、ちいさな女の子がいるのでした。
 さっきまで葉の上に落ちる水滴に合わせて、調子っぱずれな歌を歌っていた彼女は、今はなんだかぐったりとして、ふせっています。
「どうしたんだよ」
 どきっとして顔を近づけると、彼女はむにゃむにゃとちいさな寝言をつぶやいているのでした。
「……眠い……の」
 そうして、雨水が不規則にすべり落ちる葉の上で、彼女は丸くなって眠ってしまったのでした。
「あ。……今ちょっと会話っぽかったな」
 温かなうれしさがこみあげ、思わずつぶやいた自分に、ほとほと嫌気がさしました。
 毎日あじさいのもとに走る自分を馬鹿らしいと思う気持ちと、なんのためにするのか分からない勉強を一生懸命するほうがよっぽど馬鹿げてる、という気持ちがせめぎあい、ぼくはぐしゃっと髪をかきまぜました。
「なんでそんな……こっちの気も知らないで、君はのんきだな」
 ぼくは言い、彼女の部屋に覆いかぶさるように咲いている鮮やかな藤色のあじさいの花を、そっと撫でました。
 げこ、げーこ、げこ……。
 泥と、田んぼと、あじさいを叩く雨の音。それを煽るようなカエルたちの声の重なり。それらにかき消されてしまいそうな、彼女のちいさなちいさな寝息。耳をすませば、すべてが雨とともに、ぼくのなかに染み入ってくるようでした。
 ぼくは手に触れる、ひんやりと冷たい藤色の花をしばらく見つめ、おもむろに唇を寄せました。唇にうつる雨粒の冷たさ。花弁のすべらかさ。胸いっぱいにふくらんだ甘さ。
 ざわり。
 ぼくの体の細胞たちのざわめきか、はたまた大きなあじさいのかぶ全体がふるえた音か。いつしかカエルの声も雨の音も意識の外へ遠ざかっていました。風はなく、雨が空からまっすぐ地面をつきさす、そんなただしく閉ざされた梅雨の夕暮れでした。
 ぼくはそっと唇をはなすと、無意識に手で口を覆っていました。唇の先に、全身の神経が集中してしまったようです。湿気をはらんだ細かな空気の粒すら感じられるほどでした。ぼくは自分の唇が触れていた花弁を見つめ、ざらざらとした息を落ち着かせようと必死でした。目の前でゆれる藤色の花弁はみずみずしく、元気のいい様子がまるで彼女のようでした。
 
 げこ、げこ。
 
 再び耳につくカエルの声。頭をよこぎるアオガエルとちいさな彼女の姿。
 きっと、ぼくがあんなことをしてしまったのは、そのせいに違いなかったのです。
 ぼくは魔法にでもかかったかのように、無意識に後ずさりました。
「だれか……嘘だっていって」
 突然襲いくる恥ずかしさに、体中が熱でじんと痺れます。唇には甘くみずみずしい花びらの感触がまだ鮮明に残っていて、自己嫌悪が全身に波紋のように広がります。ぼくはそれをどうすることもできず、慌てて自転車に飛び乗ると、熱に浮かされたようにその場から逃げ出したのでした。

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こびと

奥さん専属パン屋さん^^ 自家製天然酵母パンのブログ【こびとのカフェ】を運営しています➤https://kobito3nocafe.com  自家製酵母パン研究家/韓日翻訳家/小説家/ミニマリスト……クリエイターとしてnoteに参加します! どうぞよろしくお願いします!

森野こびと(小説)

普段はパンを焼いたり翻訳をしたりしている僕ですが、実は小説を書きます。ぜひお時間のあるときにお手にとってご覧ください^^
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