指定吟題(その二)

個人的な資料、まとめとして記す。剣舞のみ。手持ちの解説書や吟剣詩舞月刊誌「吟と舞」などより引用、もしくは要約。

(その一)から続く。

青年・一般の部。

4 「逸題」   山内容堂

風は妖雲を捲いて 日斜めならんと欲す
多難意に関して 家を思わず
誰か知らん此の裏 余裕有るを
馬を郊原に立てて 菜花を看る

捲いて(まいて)、此の裏(このうら)=この様な事、郊原(こうげん)=野原、菜花(さいか)=花

訳、「日本の国情は、例えば風が妖しい雲をよび、日が陰るが如く、まことに前途は困難なことが多くて家のことなど顧みる暇がない。しかし、この様なことは自分自身は前々から熟慮してきたことだから、今さら何も慌てる事はなかった。だからこそ自分は心にゆとりを持ち、或るときは馬に乗って野原を散策し、また花を愛でて居られるのである」。

作者・山内容堂(豊信・とよしげ)は土佐藩15代藩主。お酒が好きで自らを「鯨海酔侯」などと称していたが、藩政改革を積極的に行い、幕末の四賢候の一人と評価されていた(他は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬)。第14代将軍継嗣問題で四賢候と水戸藩主・水戸斉昭により一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)を擁立するが、大老井伊直弼の擁する紀州藩・徳川慶福(後の14代将軍・徳川家茂)に敗れ、一橋派は謹慎を受ける。いわゆる安政の大獄である。容堂は隠居して藩主の座を譲った。
その後(桜田門外の変の後)土佐藩は尊王攘夷派の首領・武市瑞山(半平太)率いる土佐勤王党が藩政を掌握していたが、長州藩の失脚(八月十八日の政変)で佐幕派が盛り返す事となる。のちに容堂が復権して再び藩政を取り戻し、土佐勤王党には弾圧が行われ壊滅。この時坂本龍馬や中岡慎太郎らは逃れ脱藩する。
情勢は変わり、坂本龍馬などの活躍もあって土佐藩は薩摩・長州藩などと肩を並べるようになる。また龍馬らが推進していた、政権を朝廷に返還する案(大政奉還)に協力し将軍家へ建白を行った。
維新後は複数の妾を囲うなど、豪奢な生活をしていたようです。


5 「垓下の歌」   項籍

力山を抜き 気世を蓋ふ
時に利あらず 騅逝かず
騅の逝かざる 奈何すべき
虞や虞や 若を奈何せん

蓋ふ(おおう)、騅(すい)=項羽の愛馬、虞(ぐ)=虞美人、虞姫

訳、「我が力は山をも動かし、気迫は世を覆いつくすほどであったが、天は我に味方せず、愛馬の騅も進まなくなった。騅が進まないのに一体どうしたらいいのだろうか、それにもまして愛する虞美人が哀れでならない、あなたの身をいかにすべきなのだろうか」

作者・項籍、字を使った「項羽」の方が有名であろう。中国古代史の一ページ、「項羽と劉邦」のお話です。
紀元前、秦の始皇帝と、その死後二世皇帝を傀儡とした宦官趙高の暴政に苦しんだ民衆の不満は噴き出し始め、各地で反乱が起きる。その時一躍躍り出たのがかつての楚の国から兵をあげた項梁と甥の項羽である。また沛県出身の劉邦も低い身分ながら着実に力をつけ秦を追い詰める。ここまでは同じ秦への反乱軍として同調していた項羽と劉邦だったが、劉邦が先に秦の咸陽に入ってお互いの間に亀裂が入る。秦の崩壊後は項羽が主導権を握るが、苛烈な政策などで各地でまたも不満の声を起こしてしまい、その不満をまとめ上げたのが劉邦の勢力で、項羽の楚、劉邦の漢の争いに集約されていった(楚漢戦争)。
自らの力を押し出して強さを発揮する項羽・楚軍は度々劉邦・漢軍を攻め上げるが、配下をうまく使い知略を尽くす劉邦に次第に押され始め、最後は項羽のいる「垓下」での決戦になり、ついに敗北。四方を囲まれ進退窮まった楚軍に周囲から故郷の歌が聞こえてきて絶望する。これが有名な四面楚歌の語源となりました。この状況に至って生まれたのが項羽の「垓下の歌」である。ちなみにその後のお話が杜牧の「烏江亭に題す」になる。


6 「中庸」  元田東野

勇力の男児は 勇力に斃れ
文明の才子は 文明に酔う
君に勧む 須く中庸を択び去くべし
天下の万機は 一誠に帰す

斃れ(たおれ)、中庸(ちゅうよう)、択び去く(えらびゆく)、万機(ばんき)=万事

訳、「勇気を頼み、腕力に頼るものはその力ばかりを頼むゆえにわが身を滅ぼすこととなり、又、文明に憧れる才子は、我が国の美点や長所を忘れ軽薄な人物となりかねない。そこで君(皆さん)に勧めたいことは、右にも左にも偏らず、不偏中正の道をえらんで行動してもらいたい。天下のあらゆる事は一つの誠によるものであるから、それを失わないでほしい」

作者・元田東野(永孚なおざね)は幕末・明治の隈本藩出身で漢学者。
中庸とは儒教における四書(論語、大学、中庸、孟子)のひとつ。作者は明治・文明開化の時代、西洋文明に憧れ日本固有の伝統を否定するような世情を感じ、又その反発から自己の勇力に任せて過激に走り、社会を混乱させ、更にわが身を滅ぼすに至る状況を見て、左右に偏らず、時代にも状況にも支配されぬ中正の道、誠の一字をもって万事を貫くべきという思いをを詩に託した。


7 「北庄懐古」   芳川越山

中原の草木 威風に靡く
独り抗衡を試みる 此の翁有り
勝敗は 兵家の常事のみ
城楼骨を焦がす 亦英雄

北の庄(きたのしょう)=柴田勝家が本拠にしていた城、靡く(なびく)、抗衡(こうこう)=対抗、亦(また)

訳、「草木が強風に靡くように畿内の武将たちはみな秀吉の威風に従ったが、ひとり異を唱えて対抗するこの翁(柴田勝家)がいた。勝敗は武士によって常の事、たとえ戦いに敗れ、城とともに骨を焼かれても、やはり勝家は真の英雄である」

作者・芳川越山(幕末から大正)は徳島出身で、幼時から漢学を学び、長じて長崎で医学を修め、官僚、政治家として活躍しました。

織田家の宿老「柴田勝家」は、本能寺の変後、明智光秀を討ち勢力を増した羽柴秀吉と信長の後継問題で対立(清州会議)し、一旦本拠「北の庄」に帰る。その後着々と勢力を拡大する秀吉を憂慮したが雪で動けず、二月に入りやっとの思いで出陣、琵琶湖の北「賤ケ岳」付近での戦いになるも敗北、北の庄に退く。追い詰められた勝家は炎上する城でお市の方と共に最期を遂げる。この詩は、形勢が大きく秀吉に傾く中でも、武士の気骨を貫いた柴田勝家を称えています。

北の庄城址。福井県庁(福井城跡)の南に北の庄城址・柴田公園がある。

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喜多川歌麿画(Wikipediaより)

8 「和歌・吹く風を」   源義家

吹く風を 勿来の関と思えども 道もせに散る 山桜かな

勿来(なこそ)=来る勿かれ、来ないでくれの意、勿来の関=奥州にあったといわれる関所の一種

訳、「勿来の関の道いっぱいに散った山桜の花を愛でつつも、ここは勿来の関なのだから、その名の通り風よ吹かないでくれ、美しく咲く桜の花よ、どうか風で散ることなくそのままでいて欲しい」。散った山桜の花を、戦いで散っていった仲間たちにとらえているとも考えられる

作者・源義家が後三年合戦の帰り、勿来の関を通った時に詠んだ歌とされる。

源義家。平安時代後期の武将、八幡太郎の通称で知られている。鎌倉武士政権を起こした源頼朝は玄孫にあたる。
前九年合戦では父頼義と共に奥州安倍氏を討伐、後三年合戦では同じく奥羽清原氏の内紛に介入して活躍した。味方になった清原清衡(戦後藤原清衡と名を改める)が後の奥州藤原氏の始祖となる。また、この時の戦いでは「雁が飛び立つのを見て伏兵が潜んでいるのを見破った=頼山陽作の漢詩・八幡公」が有名。しかし後三年合戦後は朝廷から私戦と判断され恩賞を受けられず、陸奥守も罷免された。とはいえ、出征した侍たちに私費を投じて報いたことから東国での源氏の名声は高まる。のちの源頼朝の鎌倉での武士政権樹立の礎となったと言っても良いのかもしれない。

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源義家/歌川国芳『武勇擬源氏』(Wikipediaより)

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