異床同夢

僕が中学生のころから、「コメが余るなら国が買い上げてアフリカの飢えてる国に援助すりゃ良いじゃんか!」
という議論は、左翼界隈ではありました。
(右翼については、国道255沿いの河野洋平さんちの前で拡声器で売国奴!って怒鳴ってる姿しか知りませんでしたm(_ _"m))。
近年、農業がらみの話題では、種子法や種苗法の廃止や改正で、ナショナリズムを刺激されてる右翼と、農政の変化=農家が被害者に!と母性を刺激された左翼が同じストーリーを語る場面が増えました。

ウクライナ戦争で農産物価格が上がったことが拍車をかけ、赤旗からチャンネル桜まで、鈴木宣弘大先生が引っ張りだこです。ややこしいことに、参政党みたいなにわかの都市政党も、少しひねって同じ議論に寄せてきています。
鈴木先生ご自身で公開されていたので転載させてもらいます。
以下『』は抜粋

『占領政策で米国が日本を余剰生産物の最終処分場とし、
… 日本人の食生活を米国農産物に依存する形に誘導・改変した。
米国の小麦を日本人の胃袋に押し込むために、
慶応大学医学部教授に「米を食うと馬鹿になる」という本を書かせ…トウモロコシや大豆を酪農・畜産の飼料として処理するために、日本の酪農・畜産の発展も促した。…』
『今やるべきは前向きの財政出動。「生産調整」ではなく「出口調整」だ。増産してもらって、国の責任で、
備蓄も増やし、フードバンクや…海外支援にも活用すれば、…皆が助かり、食糧危機にも備えられる。』

「戦後の日本を余剰穀物の最終処分場にしやがった!」と怒ったわずか1000字くらい後に、「余った食料は海外支援に使え!」と結べるこの自己中な視野狭窄は、ちょっと尋常じゃありません。

「米を食うと馬鹿になる」という当時の言説も、それだけ抜き出すとビックリしますが、当時の日本の稲作地帯の農村で、米偏重の食事が栄養学上の課題であったという時代背景を、すっ飛ばして議論するわけにはいきません。

農家のお昼、一個に一合くらい米を使いそうなおにぎりを、三つ四つと食べながら、オカズは漬物が少々のみ。あるいは家に帰っても、味噌汁の実がわずかに一品という極端な偏食でした。
ビタミンとタンパク質の過度な不足が強烈に意識される中で、「米中心の当時の食文化が、副食を食べない食習慣を固定してしまっているのではないか」という当時の仮説の立て方を、現代の視点から笑うのは容易かもしれませんが、
副食が普及させやすいと映ったパン食の合理性を、意識的にかつ能動的に取り入れようとした農村のリーダー層が多数存在した事実も無視して、米国の陰謀ですべてを説明する仮説は、それより上等だとも言えないでしょう。

米に不自由していた山村の、雑穀や豆に依拠する食生活が、かえって栄養バランス的に良い、「長寿村の食生活」として、パン食と同時に注目されていたことは、それが単なる占領軍のプロパガンダでは無かった証左です。

そういう雰囲気が下地としてある中で、米を食うと云々という極論が出たわけです。一人の大学教授が流れに掉さして食や農業に関する極論を持ち出して、そこにアホな世論の注目が集まるという現象だけなら、別に戦後に限って見られることではありません。
(現に今もこれこの様に。)
また、戦後直後、なけなしの外貨を費やした外米の輸入に頼っていたこともあり、むしろ国産小麦によるパン食を普及させることで自給率を高めようという運動でもありました。火を使わずに食べられるパンに主軸を置くことで、婦人が毎日かまどで火をつかう労力の軽減、さらには薪の節約ということまで真面目に議論されていたのです。

滿洲と朝鮮半島という穀倉を失い、戦時中、農業投資をケチり、農家資本の育ちようのなかった軍事最優先の失政の結果、極端な飢餓が列島を襲い、農家は米の強制供出を避けようと米を畑に埋めてまで隠し、都市はいたるところにカボチャを植えて、かつ飢えていた時代に、米国からの小麦と脱脂粉乳は、相手方の意図の美醜を超えて、必須の物資であったわけです。大日本帝国の無能を恨むならまだ分かりますが、右翼はそうもいきますまい、ならば70年も後になって、みっともない八つ当たりを持ち出すことは諦めて、黙って過去の恥辱を忍ぶのが大和魂というものでしょう。

畜産の振興も、農村の栄養と所得の向上、農村の健気な資本として、村を挙げて熱心に勉強会などを開いていたのです。
特にナイロン、レーヨンに押されて生糸産業が退潮し、山腹の桑畑が酪農の草地へと転換されました。膨大な引揚者が所得を得るために、需要の拡大が望める酪農に希望を託したのは必然です。占領軍じゃなくても、誰が為政者でもそこへ向かったのです。

畜産はひっ迫していた肥料需要にも合致していました。
畜力や肉よりもむしろ堆肥生産を主目的にした、糞畜という存在があったことなど、今じゃ想像も出来ない時代です。
米国の穀物を家畜の飼料に、などという大それたことを思いつくのは、60年代の中ごろ以降になってからのこと、それも大鍋で残飯を煮ていたのが主流の中で、一部の先進的な農家が「粉をなめさせて豚が飼えるらしい」と導入したくらいのことです。穀物メジャーにとって日本の畜産需要が魅力的に映るのは、70年代に入ってからのことでしょう。

占領期から60年代までの畜産は、うじゃうじゃいた農家の小中学生を使って、競って畦畔の草を刈って牛に食わせ、乳を搾って小川で冷やして農協の集荷場に自転車で運んでいた時代です。魚アラや米ヌカ、貧相な残飯を豚に食わせて、場合によっては2年もかけて90キロにも満たない豚を肥育していたのが、当時の畜産です。「日本の畜産は占領軍から米国の余剰穀物のはけ口として見られていた」というのは、時間軸が狂った議論であり、やや自意識過剰というものです。

村の目標は未舗装道路の改善と畜産の振興!家庭の目標は立って使える流しと水道、冠婚葬祭の簡素化と家族計画!公民館で結婚式を開いたりするのが、当時の意識高い系の目指していた生活様式だったりしたのです。

時代背景を全く無視して、
占領軍!アメリカが!と分かりやすい敵を作って、右も左も農業を守るために闘っている気になっているのは結構ですが、
そういう被害者史観だと、
それぞれの時代の農村に、その時々の合理性をしたたかに追求した、強さと自主性があった側面が歴史から消されてしまいます。

それでは山下惣一が指摘したような、
農家による率先した自主的な農業離れと、それでも維持した非市場原理的な営農の意味は、反省も評価もされないままとなり、

今後正直どういう土地利用がしたいのかという主体的判断も持たないままに、耕作放棄地を減らそうという、核廃絶と同様、見通しを伴わないスローガンの下、前を向いて後ずさりする転進を続けることになりますね。

農村が歴史的に、すばらしく賢くあったとは言いませんが、ただ馬鹿で客体として生きて来たわけではありません。
戦後日本人が平和憲法や畜産を、それなりに自ら選んできた歴史という側面を無視してしまうと、今後の自主性の立脚点というのが、「戦後GHQにないがしろにされてきた純日本的で農本的な何か」という、あまりにチープな湿っぽい愚痴になりかねません。

https://youtu.be/W7dtQIR0pEU

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