小説「施設からの風」(10)

 大山さん(架空の人物、(1)を参照)の日記の公開です。引き続き認知症について書かれています。

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2024年3月3日

 今日はひな祭り。ひな祭りといえばひな人形だろうか。自分の娘のひな祭りのことなど、もう何十年も前の話でかなり記憶が薄い。だいたいその当時ですら、娘が大きくなるにつれ、親も娘もだんだん関心を持たなくなってしまった。さて、今時のひな祭りのお祝いは、世間一般ではどうしているのだろうか。
 もっとも、妻の母親、つまり義理の母が私たちの娘のためにひな人形をつくってくれたことはしっかりと覚えている。あの時代の人は自分で人形をつくることがそれほど特別ではなかったのかもしれない。しかし皆が皆ということではもちろんなかったし、自分の母は全くそういうのには縁遠い人だったので、驚きもあった。そして当時、義理の母と娘を誇らしく思ったものだ。

 さて、先般、認知症に関する本を熟読したが、そのこともあり、このごろは施設の認知症と思われる方の様子をついつい見てしまう。もちろん出向いて観察しているわけではないが、施設内を動き回り、施設の方を入居者の方をつかまえては話をされたりしている方もいらっしゃるので、そういう時はついついそちらに注意をひかれてしまう。
 一口に、認知症においては過去の記憶が無くなるというが、記憶にも種類があり、また無くなる程度もいろいろあるのだろう。なんでも短期記憶というのがあって、つい今しがたのことを忘れてしまうようである。一方、昔の事でもしっかり記憶に残っているようなことは、逆に覚えていたりするとのこと。そういえば、昼食をとり終わってしばらくしてから自分は食べてないというようなことを言っているのを耳にしたことがある。あと、記憶が無いからだろう、なぜ自分が施設にいるかが理解できないため、ここはどこだ、なぜここにいるのだ、という状態になってしまう方もいる。先般の書籍でも、著者の先生は、「今、ここ」を生きるようになっていく、と書かれていたが、そうやって生きていくのも、なかなか大変である。
 ところで、認知症が語られるとき、未来の話が出てくることはほとんどないように思う。しかし、過ぎ去った過去の出来事はしょせんは「今の記憶」でしかない。未来の出来事も今想像できる範囲の未来で思い描いていく。そしてそれはまさに「今の記憶」として脳にきざまれる。そう考えると、短期記憶の無い人は未来も無いのかもしれないと思った。
 たとえば、明日娘さんが来られるそうですよと、今聞かされたとする。普通であれば、そのことを楽しみに待ったり、あるいはそのための何か準備を会う時までにするとか、そういう心の動きがあるわけだ。しかし、認知症により、訪問者があることを聞いてもすぐに忘れてしまえば、まさに一歩先の未来すらないわけだ。未来は時間の経過と共に現在になっていくが、そういう未来しか持ちえないのだろうか。実際のところどうなのだろうか。たとえば、カレンダーに予定やメモを書き綴り、何度忘れてもその度に何度でも見れば、それは防げるのだろうか。
 
 あらためて、著書の内容を思い起こす。ある程度認知症が進んでも、普通の状態とかわらないような時もあるとのことだった。ならば、その時に、自分の記憶を整理し、少しずつ記憶を失っても対応できるような準備をやっておくことが重要なのかもしれない。そういう意味では、私はまだチャンスがあるということだ。もちろん、認知症が来る前に寿命が来てしまうかもしれないし、それがわからないのが人生であるけれども。

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