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日本の多様性とズートピア

「日本は99%日本人だけで成り立っている単一民族国家だから、多様性がない。だからイノベーションが生まれにくく、多様化しているグローバル社会で遅れをとっている。一方、人種のるつぼである米国では、様々な人種が住む多様な国だからこそ、イノベーションで世界を牽引してきた。」

どこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。いろいろな業界で遅れをとっていると言われる日本を卑下する意味で、特に米国と対比して語られる論調です。特に分かりやすい例を挙げると、日本の大学入試を人格で評価しようという動きも、米国のような包括的入試なら多様な生徒を選抜できる、という前提に成り立っています。このブログでは、とりあえずこのような主張を総じて通説と呼ぶことにします。

最近、この通説の前提となっている米国の多様性は、よりいっそうエンターテイメントな形で全世界に向けて公開されたように思います。ディズニー映画「ズートピア」では、うさぎ、狐、ライオン、ネズミなど、様々な動物が一つの社会で共生していく葛藤を描いています。それぞれの動物が人種を反映しているような、米国社会もしくはグローバル社会について考えさせられる、深いメッセージも込められているような内容にもなっています。

米国と日本を比較した場合、一見この通説は正しいような気もします。心理学では、「創造性(クリエイティビティ)は多角的なアプローチで、色々なアイディアを統合することによって生まれる」という主張があります(例えばコーネル大学のロバート・スタンバーグ博士によるInvestment Theory of Creativity)。他にも、コンバージェントシンキング(convergent thinking)対ダイバージェントシンキング(divergent thinking)という用語があります。1+1=2 のような、常に決まった答えを求めるような考え方をコンバージェントシンキングと呼び、一方で、一つの課題についてより多くの選択肢や答えを見出そうとする考え方を、ダイバージェントシンキングと言います。

米国の著名人ダニエル・ピンクが下の有名なTEDの講演で言ったように、これからの時代はどちらかというと、企業は後者の考え方を追求し、後者の考え方が必要とされる社会的な課題が増えているでしょう。

このような背景から、通説は「米国は様々な人種、言語、宗教を持つ人々の集まる国であるから、考え方に多様性がある。それに比べて、日本ではみな日本人だし、同じ言語を喋るし、同じような教育を受けているから、思考の多様性がない」ということを前提としています。

確かに、日本では統計的に大多数の人は「日本人」であり、世界でも有数のモノリンガル国家(国が指定する母国語が一つだけ)であるし、世界各国に比べれば全国民に同じ教育が行き届いている、というのは本当でしょう。

では、日本人の思考、信念、価値観、性格、態度などが多様でないというのは本当でしょうか?

1. 世界規模の価値観調査による考察

人間の思考の多様性を測るために、最も効果的な手法が価値観調査でしょう。今まで、世界規模の価値観調査を行った学者が数人います。中でも有名なのは、ヘブライ大学の社会心理学者、シャロム・シュワルツが実施したシュワルツ・バリュー調査で、彼は世界の67カ国の学生(約2万6000人)と54カ国の教師たち(約1万6000人)を対象にした調査をもとに、世界共通の普遍的な10の価値観を抽出しました(英語版の図はこちら)。その他にも、シャロム・シュワルツはヨーロッパを中心とした19カ国(約4万2000人)を対象に、少し違ったやり方で価値観調査を行いました。そして、政治学者のロナルド・イングルハートは、62カ国から約8万4000人の価値観や様々な社会的な活動への態度を調査しました。

さらに最近、ニュージーランドの文化心理学者であるロナルド・フィッシャーとシャロム・シュワルツは、これら3つの代表的な世界規模の価値観調査(当然日本も含まれている)を少し違った観点から分析をした論文を発表しました。その論文で彼らは、3つの価値観調査のそれぞれの項目における回答のばらつきに注目し、それが個人単位で比べた時と、それぞれの国単位で比べた時、どちらが大きいかに着目しました。

どういうことかというと、例えば「すべてをひっくるめて、あなたは幸せですか? 1=全く幸せでない 〜 4=とても幸せ」という質問項目に対し、日本人Aさんは2と答え、日本人Bさんは3と答え、日本人Cさんは1と答える場合があります。このように、日本国内でも回答の点数は必ず変わってきます。米国でも同様です。そして日本と米国それぞれの中で個人差が検出されることになります。これが個人vs個人のばらつきです

そして、回答のばらつきが大きければ大きいほど、価値観が多様であることを意味します。逆にもし、幸福感に関する質問にある国の被験者全員が4と回答したら、全員の回答が一致しているので、その国の幸福感に対する多様性は0ということを意味します。

同様に、国単位でのばらつきを比較するときは、まず国ごとに平均を出します。先ほどの質問項目に対して、日本の回答の平均が、2.5で、米国の平均は3、中国は2.8、といったように、それぞれの国の平均を比べることができます。そしてこのように、国を一つの単位とみなした時、各国の平均点が全て同じになることは絶対にないので、国vs国のばらつきを測ることができます。

そして、フィッシャーらは幾つかの統計的な処理を施したところ、「国vs国のばらつきよりも、個人vs個人のばらつきの方が、数値としてはずっと大きい」という結論に達しました。もし国がそれぞれ顕著に異なった文化を共有していたのなら、国vs国のばらつきは大きくなるはずです。しかし、統計的にはこのばらつきはかなり小さく、国単位で見るとそれぞれの国がかなり似通った価値観を共有している結果になりました。一方、個人間のばらつきを見てみると、そのばらつきは非常に大きいことがわかりました。つまり、それぞれの国は、実に多様な価値観を持った人々から成り立っているということです。

今まで学者や研究者は、国あるいは文化を比較する際に、それぞれの国や文化ではある特有の価値観がある程度「共有」されている状態を前提にしてきました。しかし、このような結果を見ると個人個人の回答のばらつきが非常に大きいために、そもそもそれぞれの国に特有とされてきた価値観自体が国民に共有されている状態にあるのかどうか、という疑問が出てきます。これは、日常生活で私たちが他国の人たちと自分たちの文化を比べる時にも、何気なく行っている思考回路に似ているのではないでしょうか。国を一旦平均化し「個人」として扱ってしまうと、それぞれの国の中の個人間のばらつきが無視されることになってしまいます。そして、この個人間のばらつきの方が、国家間のばらつきよりも、数値としては遥かに大きいのです。

私たちは、それぞれの国、文化、社会システムが個人の価値観や思考に与える影響力について、過大評価する傾向にあると思います。しかしフィッシャーらの分析が示す限り、個人の生まれ持った遺伝や身近に育った環境などの方が、実は大きな社会システムよりも個人の価値観に影響を与えている可能性が高いのです。つまり、ある一つの国は、実に多様な価値観を持つ個人達から成り立っていることが、統計的に示されているのです。

2. 日本の多様性の考察

話題をもう少し日本に絞りましょう。筆者は現在、価値観やカルチャーフィットを基準に人材配置や転職を人工知能によって実現させるプラットフォームを開発している日本のベンチャー企業に関わっています。そこで色々なお客様の分析結果を見たところ、日本の多様性の存在を十分に実感しました。

例えば日本の企業様を幾つか比べてみても、実に多様なカルチャーが存在します。企業Aは企業Bよりも平均して変革を重視する人が多く集まっていたり、企業Aの〇〇さんは企業AのXXさんに比べて、仕事の成果を重視するか過程やプロセスを重視するかといった面で対極にあったりします。そのような価値観の違いで軋轢を生む場合もあります。逆に、外向的な性格の人と内向的な性格の人を合わせるとうまくいくなど、価値観の多様性が良い結果につながる場合もあります。人事・採用に関わる方なら十分に実感されていると思いますが、一つの企業の中にも、また就活生の中でも、様々な価値観を持つ個人が存在しているはずです。もし通説が正しく、単一国家である日本に多様性がないなら、企業間や個人間のばらつきはより0に近くなるはずです。我々の持つデータは、それを全く支持していません。

筆者自身が個人的に行った社会心理学調査からも、同じような結果が得られています。筆者は、サンフランシスコ州立大学に留学している日本人学生と、現地のアメリカ人学生(30%=アジア人、20%=メキシコ人、40%=白人 10%=黒人)を対象に、個人主義・集団主義、不確実性回避、神経症傾向という側面について比較調査をしたことがあります。もし米国の方が多様であるなら、様々な人種で構成されてるアメリカグループの方が、日本グループよりもこれらの側面に対しての回答のばらつきが大きくなるはずです。しかし、どの面においても、日米間のばらつきの度合いはほぼ同じです。さらに筆者が前に行った、日米の40代以上を対象にした価値観調査でも、ほぼ同様の結果が得られています。

何もデータによる説得がなくても、少しだけ想像力を働かせれば誰にでも実感できる瞬間はあると思います。信頼していた恋人に裏切られたり、金銭感覚の違う同僚に驚いたり、好きな食べ物の嗜好がまるで違う人に出会ったり、近所の家族でも全く違うカルチャーを持っていたりします。同じ日本で生まれ育ち、日本語で同じ教育を受けた私達でも、「この人の当たり前と、自分の当たり前は違う」と感じたことは、誰にでもあるはずです。しかしこのような簡単な事実も、いろいろな錯覚やバイアスによって、かき消されてしまうのです。

3. 日本の多様性を隠してしまうバイアスや障壁

心理学の古典的な現象に、外集団同質性バイアス(outgroup homogeneity bias)というものがあります。これは、「自分が属しているグループ以外のグループに属しているそれぞれのメンバーの個性や特徴は、過剰一般化されてしまい、見えにくくなってしまう」傾向を指しています。人間は生まれた瞬間から、グループに属して生きています。グループで生活し、「ウチ・ソト(味方・敵)」の区別ができる能力が、人間がグループとして生き延びていく過程でとても便利だったのかもしれません。しかし、同時にこの過剰な区別が、外集団に対する多様性の認識を妨げてしまうという短所もあります。そしてこのバイアスは、外国人が日本人を観察している時により強調されるように思います。

例えばアメリカ人が日本人を見て、「日本には多様性がない」と主張するパターンも、外集団同質性バイアスの典型でしょう。また、外見による区別のしやすさが、外集団同一性バイアスをより一層強めている可能性もあります。確かにアメリカのサンフランシスコの街中を歩いていると、実に様々な人種の人たちを見かけます。東京の渋谷を歩いていても、見かける人はほとんどが日本人です。しかし、見た目が似ているからといって、価値観や思考が似通っている保障など、どこにもありません。東京大学の学生のほとんどが日本で生まれ育った日本人で、カリフォルニア大学バークレー校では世界中から色々な人種の生徒が入学してきます。しかし、東京大学の多様性がバークレーの多様性よりも劣るということは、実は検証してみないとわかりません。「多様性=外見の違い」と定義してしまうと、日本人の思考の多様性は見えにくくなってしまいます。しかし、「多様性=思考の違い」と定義したならば、先ほど示した通り、日本人の中にも、米国の多様性と同じほど、実に様々で豊かな価値観の多様性が存在しているのです。

いろいろな種類の外集団と接触する機会が劇的に増えた現代においては、皮肉にも「ウチ・ソト」を区別する能力がマイナスに働いているのではないでしょうか。しかし、ある外集団に属している個人個人をきちんと理解するには、その集団に入り込んで一緒に時間を過ごす必要があります。

言語の壁も、外集団同質性バイアスを強めている要因であると思います。ある文化の人々を深く理解するには、その文化で話されている言語を理解しなければいけません。筆者自身も、アメリカに長い間住んでいましたが、しばらくすると自分の中に存在していた典型的なアメリカ人像と日本人像の違いは徐々に消えて行きました。なぜなら、英語が上達するにつれて、細かいニュアンスや微妙なコミュニケーションの仕方を掴むことができるようになり、アメリカ人個人個人の多様性をより深く理解できるようになったからです(なっているつもりかもしれません)。日本語も分からず、住んだこともないアメリカ人が「アメリカは多様だけど日本は多様じゃない」というのは簡単ですが、深いレベルでのコミュニケーション抜きにして、日本人の思考の多様性を深く実感することはまず不可能でしょう。アメリカに留学している日本人が、アメリカの大学は多様で日本の大学は多様でない、というのは簡単ですが、日本の大学での生活を抜きにして、日本の大学生の多様性を理解することは難しいかもしれません。

他にも、このような通説が簡単にまかり通ってしまう理由は、欧米へのコンプレックスだったり、強い劣等感といった感情的な部分だったりもするでしょう。

まとめとこれから

もし通説の一部、「多様性がイノベーションを生む」という部分が本当だとしたら、日本にも十分にその土俵は整っているように思います。なぜなら、偏差値教育を受けてきて、人種、言語という点においては多様でないかもしれないけれど、日本人の思考や価値観は実に多様であるからです。しかし、見た目ではわかりにくく可視化しづらい部分だからこそ、錯覚に陥りやすく、それを克服するには個人の意識的な努力や、工夫したアプローチが必要になると思います。

また、日本に多様性が存在するという事実はあっても、人々がそれを許容するかどうかは、また別の課題のような気がします(「多様性を認めよ!」vs 「『多様性を認めない』という多様性を認めよ!」)。人種のるつぼと言われている米国でさえ、多様性を許容している社会を実現できているかといったら、それもまた疑わしいと思います。

日本では確かに、人種や言語による多様性はないかもしれません。しかし、思考の多様性は米国のそれと同じように存在します。だから、多様な価値観、信念、態度、性格の存在を何かしらの形で可視化し、認識した上で、それぞれの個性が輝ける適材適所の社会を実現していく姿勢が、日本の「ズートピア」を実現していく第一歩になるのではないかと思っています。


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