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日本とフィジーの意外な繋がり〜シェアする時代の到来〜

みなさんはフィジーという国をご存知だろうか?フィジーはオーストラリアの近くにある、333からなる島国だ。フィジーは決して豊かとは言えない。物乞いは居るし、家がトタン屋根なんてことも...。

しかし、

なんと世界でいちばん幸せな国として3年連続1位になったことがある。

「世界幸福度調査」(米国の世論調査会社ギャラップ・インターナショナルとWINによる共同調査)(https://www.huffingtonpost.jp/yuma-nagasaki/happy-country-fiji_a_23324628/)

フィジーは、発展途上で経済的に豊かとは言いづらい国だ。しかし、なぜ幸福度1位になれたのか...。

ぼくは疑問に思った。

居ても経ってもいられず、ぼくはすぐフィジーに飛び立った。フィジーに訪れて、現地人と対話してきた。

フィジー人との対話でみえてきた、フィジーの幸福度一位の秘訣。

ぼくも、驚くことばかりだった。


消費社会はいま

沢山物を作って、

沢山消費する。

そんな時代がいま、

終わりを迎えようとしている。


これまで私達は、消費することで幸福を生み出してきた

「幸せな瞬間はいつだろうか?」と問うと、

多くの人はこう答える。


「高級ホテルで美味しいものを前に...」

「旅行しているとき」

「欲しい物が手に入ったとき」


いつの間にか、「幸福=消費すること」だと勘違いしてしまってはいないだろうか?(胡散臭い宗教ではない。)

そんな消費の時代も終わりを迎え、もうすぐ新しい時代がやってくる。それが・・・

物をシェアする時代の到来だ。


シェアとは、サービス共有することだ。

シェアオフィスに、シェアカー、

シェアハウス、シェアライド、

シェアリングエコノミー、シェアオフィス...

ぼくがすぐに思いつくだけでも、

これだけ沢山の”シェアサービス”がある。

物を所有することで幸福を得ていたのが、これからは物をシェアすることで喜びを感じる時代が到来するのではと、予見している。

実は、

日本より先にシェアを強く意識している国がある。それが、このnoteの冒頭でも紹介したフィジーである。


ケレケレが意味すること


フィジーには、世界的にみても独特の文化がある。

それが「ケレケレ」という文化である。

ケレケレとは?ーフィジーは伝統的に村単位で生活をしていて、助け合いの精神が非常に強いです。「自分のものはみんなのもの、人のものも自分のもの」という感覚が根付いており、個人所有という意識が先進国ほど強くありません。【https://fijianwalker.com/kerekere/#i】FIJIAN WALKER より引用

フィジーは”助け合い精神”が溢れる場だ。困っている人がいれば、物はもちろん、お金だって共有してしまう。

2週間という短い滞在だったが、ケレケレありきの生活だったと言えるくらいケレケレに救われた。

雑談してた男性がお会計をまとめて払ってくれたり、みず知らずのおばちゃんにカレーをご馳走してもらったり...。

皆が助けてくれる。

それに、みんな恩着せがましい感じもない。

助けた方が本人が、ぼくより嬉しそうだった。


ぼくもケレケレしたいと思い、してみることにした。

困っているホームレスや、

日本人の少年、

現地の女性など...

様々な場面でケレケレをした。

最初は、”現地の文化を体験する”という、軽いノリだった。

しかし、

ケレケレしていくうちに、ぼくの心境に大きな変化があった。


もらう喜びしかなかったぼくに、

与える喜びが芽生え始めたのだ。


そして、

あっという間に2週間経ち、帰国の日には与えることが楽しくてしょうがなかった。現地で残った現金を、空港のお土産店の綺麗なお姉さんに全額チップとして渡してしまった。(※これはケレケレとは言わない。単なるチップだ。)

2週間前、飛行機でフィジーに降り立ったとき、不安で仕方がなかった。

しかし、

フィジーで生活していくうちに、「どうにかなるさ」と謎の自信が湧いてきたのだ。自信というより、安心と言ったほうが正しいのかもしれない。

日本に居る時は「誰かが助けてくれる」という考え方はナンセンスだと思っていた。それは「甘えだ」とすら、思っていた。

しかし、

フィジーではそれを”甘え”とは言わない。

日本での非日常である「甘え」が、

フィジーでは日常的に当たり前のように行われれる、「ケレケレ」だった。

助け合い精神が至るところで見られる街。

そんな人間の温かみがある場所で暮らしたぼくだったが、日本に帰国して更に大きな気づきを得た。


シェアする時代の到来


冒頭で、フィジーは幸福度1位であると述べた。

帰国後に、その理由が少しずつみえてきた気がした。

それは、”もしものときに助けてもらえる”という安心感があるからではないか?と、今は考えている。


”助け合い” 

”物をシェアする”


それ自体に喜びを感じているのも、もちろんである。

だが、

それ以上に、

シェアした先にあるものに幸福を感じている

ぼくは、そのような気がした。



なぜ、生きる権利を与えられたぼくたちより、

経済的に貧しいフィジー人の方が幸福なのか。


その理由は少し深い話になる。が、

どうしても皆に共有したいから、今日はあえて話したいと思う。


フィジーに比べて、日本は保証がしっかりしている。

年金制度、

人権も保証され、

最終手段として生活保護、

本当に手厚く、多様な選択肢がある。


しかし、なぜだ。

なぜ、

心は日本人の方が貧しいのか?

それは皆が、貰うことに意識を向きすぎているからではないだろうか?


何が貰えるか、ではなく、

何を与えるのか、


何を与えるかに視点を変えて行動してみるだけで、本当に幸福度が増す。

先程、シェア(物の共有や助け合い)の時代がくると述べたが、それでもまだ日本は遅れていると思っている。


なぜなら、

シェアの時代がきたが、日本で言う『シェア』というのは、企業がビジネスのためにやっているものに過ぎないからだ。(シェアサイクルも、シェアカーもそうだ)

シェアビジネスが先駆けとなって、個人同士でのシェア文化が広まっていけばと良い思っている。

しかし、

今のままでは「個人間でのシェア文化」は実現しない。

なぜなら、

フィジー人と、ぼくら

日本人には決定的に異なる点が1つ、あるからだ。

それは、他者に対する信頼である。


最後に

日本人は、親しい人間に対しては信頼するが、遠い人間に対して信頼している人は少ない。(他者の分かりやすい例として、通りすがりの人や電車にたまたま乗り合わせた人などがある)

一方、フィジー人は見ず知らずの外国人であるぼくに対しても、信頼を寄せていた。(主観として)

日本人が知らない人にはボールペン一本ですら貸すのを躊躇する理由は、”他者を信頼していない”からなのではないか。電車でぶつかってきた人にイライラしてしまうのは、”わざと”だとすぐに決めつけてしまうからではないだろうか?

「ケレケレ」が成り立つ理由、

それは、お互いの信頼があるからだ。


シェアするものは「物」でなくても良い。

まずは他者を信頼し、

ぼくらも他者と、何かをシェアしてみないか?

”シェアするもの”は何だって良い。


ボールペンやレジュメ、

食べ物でも良いし、

時間を共有するだけでも大きな一歩だと思っている。


他者と何かをシェアする経験によって、きっとぼくらも、幸福への一歩を踏み出せるのではないだろうか。

日本から遠く離れた国で、多くのことが学べた。

たった2週間の滞在だったけど、幸福になれた。


ひょっとしたら、

フィジーが世界で最も先進的な国なのかもしれない。


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