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祖父と九六式艦上戦闘機

母親が引っ越しの為に家を整理していたら祖父の写真が出てきたらしい。


断捨離しながら「必要なモノor不要なモノ」を別けていたら突然、部屋から
「ガシャーン!」
と言う音がした。
母と姉が見に行くと祖父と、曾祖父の若い頃の写真が出てきたらしい。
「出ていくなら、俺達のことも一緒にな!」
と言う感じなんだろうか。

それが此れ。

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髭を生やしているのが私の祖父で、ハンサムなのが曾祖父さんである。

親子でパイロットだったのか・・・と驚いた。


何しろ尋常小学校しか卒業していない祖父である。
今で言えば中学校だろうか。
日常生活に支障はない程度の学歴だが、それでも戦場で大活躍して軍曹だか兵長にまで行った人だった。

尋常小学校卒なので、私は今まで『日本陸軍』だと思っていたら実は海軍の戦闘機乗りだったとは・・・と絶句した。

第一次世界大戦と、第二次世界大戦に参加したらしい。
ってか、第一次世界大戦の日本って、そんなに活躍していないんだけども。
ミリヲタでもある私は祖父が「何に乗っていたのか?」が気になる。
写真の裏には『昭和9年』と言う記載である。

祖父は明治35年生まれだったかな。生きていれば120歳なので到底、会うことは出来ないが、やはり気になる。

『九一式戦闘機』

だったのか

『九六式艦上戦闘機』

だったのか

『九五式艦上戦闘機』

だったのか。


昭和9年の段階では、まだ名機『ゼロ式艦上戦闘機』は登場していない。
ゼロ戦は昭和19年だもんな。

祖父が乗っていた戦闘機なんて最高速度300km程度の呑気な戦闘機と言うか

『紅の豚』

の世界である。

とは言え低学歴なのに階級がついたんだから中々の戦歴だったと思われる。

生きているうちに話しを聴けば良かった・・・と思うのだが、祖父は私が小学生の頃に死んでいるからなぁ。


私の父はホンっと無茶苦茶でダイナミックで、人格破綻者と断言しても良い人だった。

①DV
②浮気三昧
③仕事で稼いだ銭を家に入れない
④「右翼を作る」と言ってバスを買ってきてしまう。
⑤根がアホなのか何億円も騙された。
⑥でも、何十億と稼いだ。
⑦愛人が途切れた時間が1秒たりともない。

家族で遊園地に行くと父は必ず「かずたか、あっちに行ってみよう!」と行って行くのだ、気がつくと母も姉も妹もいない。

携帯電話がない時代なので私と父で『迷子預かりセンター』みたいな処に行って母が呼び出されるのが常だった。

そんな父親が「親父だけには敵わん!」と言っていたんだからなぁ。

軍人の家系って事もあって父は末っ子であれども、当たりがキツかったらしい。
だから、父親は祖父に頭があがらなかった(祖母には末っ子の体質なのかマザコン気味だったが)。

「しっかし、日本海軍の戦闘機乗りだったんだから、そりゃ中小企業の社長なんて屁以下だよな」

と思った。

最高速度が時速300km程度とは言え、あんなボロ戦闘機、しかも当時は機関銃しか詰めなくて
「ミサイル発射」
なんて夢のまた夢の時代である。

戦闘機の機関銃なんて連続して1分弱しか打てなかった、と言うクソ仕様。
そんな戦闘機で敵を撃墜する、と言ったら宮崎駿曰く「F1レーサー並の動体視力が求められた」らしいから、そりゃスゲぇよ。

私の父親が何十億円と稼いだ処で九六~九五式艦上戦闘機で飛び回っていた鬼神にすればクソ以下だよな。
因みに父親も末っ子の父を見て「軍隊に入れ!」と言われて陸上自衛隊に所属していた経歴がある。
だが、衛生兵どまりだったが。
父は自衛隊時代は楽しかったらしく「基礎訓練は辛かった。だが、あとは寝てても銭が入ってくる」と言う事で、最初の給与でバイクを買って楽しかったらしい。
そんな経歴も実戦経験がない自衛隊なんて、祖父にすりゃクソ以下だっただろうし。
調べてみると『徴兵』で呼び出される人達は『徴兵』と言う義務なので陸軍だったらしい。
志願すると海軍だったりしていたんだとか。

当時の『日本海軍』って言えば港区のパリピと言うか

「髪は伸ばし放題」
「飯も食い放題」
「女にモテまくる」
「戦闘機、最高」

と言う人種である。

北九州市と言うクソ田舎と言うか、牛がウロウロしている街から時速300kmの飛行機はアドレナリン爆発だっただろうな。

祖父が軍に志願兵として行ったのは理由は考えられるんだけども、それは

『駆け落ち』

である。

祖父と祖母は、封建的な九州大陸の更に、封建的な宮崎県と言う、恐らく鎌倉時代から対して変わっていなかったド田舎で、しかも、明治時代と言う時代では超絶タブーだった『自由恋愛』で駆け落ちしたのである。
祖母は結婚相手が決まっていたらしいのだが、そこに「俺はお前が好きなんじゃ!」と言って『駆け落ち』してしまうのである。

これは何を意味するか?って言えば地域コミュニティこそが生命線の田舎にとって『親族からの援助の一切を打ち切られる』と言う事で、現代で言えば

『NYでクレジットカードが破産する』

とか、生活や経済的にも相当な打撃である。

だが、愛する女との生活を望んで海軍へ志願。

護衛艦や戦艦ではなく、戦闘機。

それで稼げて、子供を8人産んで、2人が流産して(その頃の流産は珍しくなく普通の事だった)6人の子供。
6人と2人なので、楽しい我が家だったらしく、祖母曰く
「夏休みとかで、子供たちが『夏休みの宿題』をやってねぇ。それで祖父が『宿題終わったか?!』って聞いて『終わった』って言ったら『母ちゃん!今すぐに果物屋に行って果物買ってこい!』っち言うてねぇ。で、皆で果物を食べてねぇ」
と和気藹々とした一家だったらしい。

果物と言っても多分、『スイカ』とかだったと思うのだけど6人と2人でシェアして楽しく夏休み、って感じだったか。


因みに祖父は『神風特攻隊』の時代には軍の仕事を辞めていたらしい。
だから、伝説の『特攻専門ロケット戦闘機』である『桜花 』も、『紫電改弐』も乗っていない。

こうやって書いているが「話を聞いてみたかった・・・」と思うが、祖父は小学生の頃に死んでいるし、生きていたとしても120歳なので人体構造上、無理なのだが。

そう言えば祖父は戦場や、軍、戦争について一度も何も語らなかった。
天皇について、どう思っていたのか。
後の神風特攻隊についてとか。

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