唐十郎

唐さんが死んだ。

正直に言えば唐さんは認知症になって、新作が書けなくなった時点で私の中では

『死んで』

いたし、唐組と言う名前なのに、事実上、久保井研と言う人物が掌握しているのも疑問だった。

唐組と言うのは、唐十郎の実験劇場と言うか、唐十郎が新作を上演するプロフェッショナルな集団だった。

私が在籍していた頃、座員や同期の夢は「状況劇場の過去作の上演」だったが、まぁ新作も書いているワケだし、クオリティは・・・それはサテオキ・・・とモヤモヤしていた。

私が入団した際、同期は20人くらいいた。

ただ、唐組を観て入団したのは私と、もう一人だけで、あとは『唐十郎』と言う知名度だけで入団した人ばかりだった。

私は『唐版:風の又三郎』を読んで興奮して、一晩眠れなかった。

「こんな凄い戯曲があるなんて!」
「しかも、その人がまだ生存していて、劇団を運営しているって?!」

それで入団。

入団して「こりゃ、大変な劇団だ」とは思った。

唐組で過ごす1日は、普通の劇団の1年分だった。

でも。

私は親の金をクスネて、東京に行って観た名作『秘密の花園』を観た時は興奮の余り、居ても立ってもいられなかった。
この興奮をどうすれば良いのか分からなかった。
感動とか、そう言う薄っぺらい言葉では表現出来ない気持ちになった。

「これが唐十郎か!」

と思った。

で、入団。

入団試験は簡単なモノで、言ってしまえば受ければ受かる、と言うモノだった。

それで上京した。

母親は「あなたは世間知らずだから東京に行って揉まれてきなさい」と言うか、仕事を探すとか、そう言う口実で上京させてくれた。
口が裂けても「演劇をやるために」とは言えない。

唐さんは宴会を好んだ。

だが、唐組には妙なルールが沢山あって宴会の際は

①アルコールを呑まなきゃならない
②私語厳禁
③酔っ払っては駄目

唐組に入団しようなんて言うウブな青年達にとって唐組で提供される酒なんてクソ酒なんで不味かったし、何しろ新人は正座である。
しかも私語厳禁の理由を聴くと

「黙って先輩達の有り難いお話を聞く」

らしい。

あと、唐さんは酒に強くはなかった。
だが、昭和の男なんで、呑んでいて。
酔うと

「おい!誰か歌え!」

と言う。

此処で、当時のJ-POPなんて歌っては絶対に駄目で、主に

「60年代~80年代初頭までの『歌謡曲』」

に限定されていた。

唐さんは音楽には疎かった。
演劇に関しても、造形が深いとは言えない人で、演劇に関しての造形は『人並み』だった。

で、この「歌え!」に新人たちは震え上がった。

何しろ、嘗てアレサ・フランクリンを歌って殴られた先輩もいたのである。

しかし、インターネットなんてない時代に、そんな大昔の歌謡曲や演歌なんて誰も知るはずがないのである。

唐さんは何故「歌え!」と言うか?と言うのを説明してくれた事があった。

唐さんにとって大島渚と言うのは兄貴分だったらしく、大島渚も

「おい!誰か歌え!」

と言っていたらしい。

それで、唐さんは気に入られようと率先して歌っていたらしい。
あるとき、大島渚が

「おい!誰か有楽町の歌を歌え!」

と言った。

「でもな、そんな歌、ねぇんだよ。だから、即興で歌ったよ。必死だったからな」

で、私も歌ったな。
確か、『あしたのジョー』のOP曲だった。
作詞が寺山修司だから良いだろう、と。

意外と受けて唐さんも気に入ってくれた。

思えば私は唐組で可愛がられていた。

当時、体重は45kgで痩せっポッチで、顔も幼い。
だが、喧嘩っぱやくって(殴ってくるので殴り返していただけ。唐組は座内での喧嘩が多かった)、声も今の100倍は出たんで、観客の誘導の際に唐さんが
「あの声は誰だ?良い声してんな」
と言ってくれたらしい。

ただ、役は貰えないだろうな、と思った。

唐さんは色々なコンプレックスの塊だった。

唐さん自身、体格的に身長も低かった。
そして、精神的に女々しかった。
喧嘩も弱かった。

だから、身長がデカイ奴が優遇されるし、私は無理だろうな、と思った。

退団した理由は色々とあるのだけど、何故か私は

「1~100まであって、40までは行けるだろうな。其れ以上は無理だな」

と思った。

その頃の唐組の座員はホンっと凄くて、私が1万人で束になっても敵わない人達ばかりだった。
あと、台詞でアドリブは唐さん以外は許されていなかったのだが、本番中は自由だった。
だから、観客無視で色々とやったりしていたし、そう言う豪壮で、スケールのデカイ人ばかりだった。

そう言う人達と渡りあっていくのは難しいだろうな、と。

あと、私にとって唐十郎と言うのはアイドルだったし、マスターだった。
唐十郎になりたかった。
だが、唐組にいる限り、唐十郎には成れない、と言う事が大きかったかも知れない。

退団して「演劇を続けるのは難しいな。じゃあ、在籍時も好きだった音楽なら可能性があるな」と思って、今に至る。

しかし、唐さんは桁外れに『嫌な奴』だった。
いい年なのに女優を
「・・・お前をな!・・・良い女優にしていやるから・・・な!?」
とか言って口説いたり、策士のように振る舞おうとして、持ち前の不器用さでなれなかったり、嘘泣きしたり、バイト禁止だったり。

もう、書き始めたら1冊の本になるのではないか?と言う程、嫌な奴だった。

だが、間違いなく天才だった。
戦前から続く演劇で、一人だけをあげろ、と言われたら間違いなく唐十郎になるだろう。
これに異論がある人はいないと思う。

稽古を見学するときがあって、戯曲家としては斜陽だったが、演出家としては凄かったし

「これが天才と言うモノか」

と思った。

唐組にいた時間は1年程度だったが、最高にスリリングで、物凄い緊張感だった。
そんな状態でツアーもする。

旅公演中は、一つの布団で2人が寝るように、と言う事だったが緊張感と疲労で皆、バタンキューだった。
それでもプロフェッショナルな仕事が出来た。
それが出来ない奴は唐組を退団した。

20人いた同期は気がつけば2~3人だった。

唐さんは天才だった。

はっきり言えば特に努力をするワケでもなく名作が書けた。
糞や飯を食うのと同じように名作や傑作が書けた。

もう、それってモーツァルトやベートーヴェン、ビートルズやショパンとか言う教科書に載る偉人と同じ世界に居た。

歴史的な天才と過ごした1年間は私にとって、非常に大きかったんだな、と思う。

唐さんが富士山だとすれば、せめて麓までは行きたい・・・と思っていたのだが、私は
『凡人は額に汗を流すのみ』
で、唐さんが住む『天才』と言う世界とは違うのである。

それでも、天才と過ごした1年間と言うのは私にとって、物凄く有意義な時間だった。
それは今でも生かされていると思う。

晩年は認知症で何も出来なかったのは哀しい。

その晩年の唐組の芝居を観たことがあったのだが、今の子って器用だし上手いんだよな。
でも、スケールが小さいな、と思った。
それは久保井研と言う演出家の責任だが。

これは書いちゃ不味いのかも知れないけど、唐さんが死んで。

それでも尚、『唐組』として活動を続ける『唐組』には疑問が残る。

久保井研が演出では唐組のコンセプトではないし、新作が書けなくなった時点で唐組は解散すべきだったと思う。

それを、活動を続けるのは如何なモノか?と思う。

サン・ラの『アーケストラ』じゃあるまいし、って言う。

大鶴義丹がコメントを出していたんだけど、本心ではどう思っているんだろう。
彼は一人っ子で、ツアーにも同行していたらしいのだが、唐さんの事を良くは思っていなかったっぽい。
李麗仙は彼の母親で、李麗仙も気が強い女性だったが、浮気と暴力(暴力はお互い様だが)で、その暴力を振るう父親に複雑な気持ちを抱いていたっぽい。

とりあえず、とりとめもなく。

認知症に苦しみながら、劇団も乗っ取られ、散々な晩年だったが、人には休むべき時間がある。

唐さんみたいな人は今後、絶対に現れない。

そう言う人と1年を過ごせたのは誇っても良い気もするし、「はぁ?1年じゃん」って気もするし。

ナンダカンダと喪失感を感じている自分に驚いている。

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