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ラジオを聞かなくてもいい人

自分は毎週星野源のオールナイトニッポンを聞いているわけではない、月に1、2回聞くかどうかくらいだ。

なんとなく眠れない夜や、なにか作業をしないといけないときにラジオを付けている。
実機のラジオの電源をつけると、その無機質な見た目に「ポッ」と温度が灯るような気がする。


源さんや乃木坂46の久保ちゃんの声はその温度を保ち、そのまま自室に届けてくれる感じがする。
お笑い芸人のラジオを習慣的に聞いているけれど、この感覚はお笑い芸人には出せないものじゃないかとなんとなく思っている。

月曜は今のところ別枠で考えている。面白いけど。

なにか物悲しい深夜に体温を届けてくれるからラジオが好きだ。

音楽を聞くときもあるけれど、そのスピーカーの向こうに、リアルタイムで体温を感じられるラジオが好きだ。


ながら聞きしているとき、星野源の声に意識を取られるときがある。
本当に些細な何気ない一言に「おっと」と意識を引き戻される感覚だ。

正確には覚えていないのだけれど、たしかメールが来た。源さんと乃木坂のラジオは結構ふつうのおたよりも読まれる。


「ファンをやっていますが、ラジオをあんまり追えない、ラジオを聞けるように頑張ります」

みたいなそんなお便りだった。自分はそのメールに対する源さんのリアクションに大共感した。

「ラジオは別に聞かなくてもいい。聞きたい人が聞けばいい。ラジオは聞かなくてもほかで発散できていたり、どうにかなる人は別に聞かなくても大丈夫。
ラジオはラジオを聞かないとどうしようもない、ラジオでしか発散できない人もいるから、そういう人は聞けばいいし、けれど聞くこと自体は義務じゃない」

記憶から引っ張り出したので細かい正確さはないけれど、上記のような旨だったと思う。


この感覚にものすごく共感した。

なんというか、自分がラジオを狂ったように聞いている時期というのは、参っている時期が多いと振り返って思う。

もう貪るように聞く時期、というのはなんとなく現実から一時的に逃避したいとか、そんな自分の状況が多い気がした。


自分は趣味が少ないと思っていたから始めたnoteだったけれど、noteを書いているうちに気がついた。

どうやら趣味はあるにはあるけれど、読書とか、ギターとか、主で自宅で完結する。アクティブなものが少ないように思う。

スポーツは見るのは好きだけれど、自分がやるとなるとどうも仲間を揃えてやろうというところまで熱量が向かない。

だからこそ眠れない夜に、自宅で聞くラジオという媒体に引き寄せられるのは自然なように思える。

一人の夜に、一人ではないと寄り添って欲しいのだ。


では、落ち込んだ人にラジオを誰かに強制するかというと、そうではない。

ラジオは薦められて聞くのももちろんありだとは思う。そのくらい主流なメディアになってもいい気がする。

それでも、ラジオには結果的に出会ってしまうものなのだと思う。

何気なくつけてみたその番組が面白かったとか、お目当てのゲストが出てくる番組を聞き終えて、なんとなく流しっぱなしにしていたらその番組が面白かったりだとか。

そんな感じで本当にただ偶然に出会ってしまうものなのだ。


フワちゃんのラジオをリアタイしているとき、アフタートークをたまに見ることがある。

最近、ちょくちょく感動的な手紙やメールが来ることで一部で話題のフワちゃんANN0なのだけれど、そのたまたま聞いた回でもすごいメールが来た。

要は石川県での災害があって大変だったけれどテレビで観たフワちゃんがいつも通りいてくれたから元気が出ました。という感謝の旨だった。

けれど、このメールを送ってきた人は、まったくラジオを聞いたことがなかったらしいのである。

本人が直接メールに記していた。
感謝の言葉を伝えたいと思ったときに、真っ先に出てきたのがこのラジオのメールアドレスだったのかはわからないけれど、そんな感じで紹介されていた。


このエピソード自体はまずフワちゃんへの感謝でとてもよかったし、ラジオ的にオチもついてとても面白かったと思う。


そうなのだ。
多分メールを送ってきたその人は、ラジオ以外でもいいのである。
ラジオを聞かなくても大丈夫、生きていける人たちなのだ。そういう人ならば、別に無理をして聞かなくてもよいと思うのだ。
聞いたっていいけれど、ちゃんと追う必要はない、そこに義務感を覚える必要はない。

そして、後日。今度は直筆の手紙がフワちゃんのラジオにやってきた。これもアフタートークで紹介されていた。


こちらはリアタイはしてなかったのだけれど、少し話題になっていたので後でアーカイブを視聴した。

こちらはラジオの改編期で、フワちゃんのラジオが継続するのかしないのか不透明だった頃に送られてきたメールのようだった。

詳しくはそのまま17liveにあるアーカイブを見て欲しいのだけれど、オールナイトニッポンの偉い人宛に送られた手紙だった。
要はフワちゃんのラジオを継続してほしいというお願いの手紙だったのだけれど、特筆すべきはその内容だ。


「自分は変に生きるには普通すぎるし、普通に生きるには変すぎる。そんな私にとってフワちゃんのオールナイトニッポンは笑顔をくれる」

といった旨だった、繰り返すけどもっとちゃんと精査された美しい文だったはずだ。

この手紙には本名も住所もなく。ただ高校生ということと、性別、年齢だけ記載されていた。

そうなのだ、多分こういう人のためにラジオはあると思うのだ。

フワちゃんも言っていたけれど、この手紙は感覚の言語化が本当に素晴らしいと思う。

自分も同じようなものだ。

多分、普通に生きるには変だし、変に振り切って生きるには妙に常識を妙に身につけて生きてきてしまった。

ラジオを聞くことで何かやりきれない夜を超えたり、人とのつながりを求めたりする。
ラジオがないとどうしようもない人に、音声メディアであるラジオは平等に、そしてリアルタイムで寄り添ってくれるのだ。

星野源の声はどうしてこうも夜に寄り添ってくれるのだろうか、あの落ち着いた声はなんだろう、なんであんなに深夜に似合うのだろうか。

繰り返すようで申し訳ないけれど、僕はこのラジオを毎週聞いているわけではない。

けれどきっと、誰かの夜に寄り添い続けるラジオだ。
源さんに限らず、フワちゃんのラジオも。

そしてお笑い芸人の賑やかなラジオに救われて、それがないとどうしようもなくなる人もきっといるのだと思う。
それがラジオが衰退してもあり続ける、あり続けてほしい、結果的にあり続けている理由なのだと思う。



最近になって、ラジオとの距離が少しできている。

霜降り明星ANNに毎週送っていたネタメールも思い出したように送るくらいになった。
リアタイ時は相変わらず送っているけれど、個人的にリアタイ一行は送ってて世界一面白いコーナーだと思う。


思い返して見れば、この名前でnoteのアカウントを作ったのも、どちらかといえば現実が嫌になっていた時期のように思える。

この記事を書こうと思ったきっかけである源さんの声を聞いたときは、ちょっとした試験の勉強中でそれなりに追い込まれていた時期だった。
やっぱり、そんな苦しい感覚を覚えているときに、自分は人の体温を求めるのかもしれない。


多分僕はこれからも、ラジオを聞き続けるだろう。もしかしたら離れる時期もあるかもしれない。

それはもしかしたら返って喜ばしいことなのかもしれないと最近は思い始めている。

だけどそれでも、何か精神的に踏ん張らないといけないとき、どうも一人の夜が寂しくなったとき。いつでもラジオをつければ誰かの声が聞こえる。

僕はその環境を愛おしく想い、中学時代ラジオに出会った自分をちょっぴり誇りに想い、パーソナリティにこれからも感謝し続けようと思う。


今は星野源のオールナイトニッポンを流しながらこの文章を書いている。今週はスペシャルウィークだ。




いや、ファミレスから放送って。




ラジオってホントへんなことするよなあ。​


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