三段階の「読む」を知った日

私は国語の成績が大層悪い生徒だったが、国語の教科書が配られたら真っ先に読み切るタイプの人間だった。
そして興味を持ったら、その作者の他の本を図書館に借りに行って一通り読むのが好きだった。

が、大抵の場合そういう行動に至るのはフィクションやノンフィクションなどのドラマ性のある文章で、紀行文や評論文、詩歌などが該当することは稀だった。
面白いと思えなかったのである。
 
そんなある日、教材の副読本でとある文章に遭遇する。
 
それは「文章を読むとはどういうことか」について語っており、すごくざっくりいうと
(1)内容を理解する
(2)作者の意図を理解する
(3)その文章を書く作者はどのような人なのかを理解する
の3段階が「文章を読む」には存在しており、作家というものは往々にして……少なくとも筆者は(3)を求めて文章を紡いでいるのに、そこまで到達してくれる読者は数少ない上に、下手すれば(1)すらもおぼつかない読者が多くて、悲しみというか孤独感にさいなまれている、といった内容であった。
(※凄まじく意訳しています)
 
ハッとした、以外の何物でもなかった。
 
それまでの私は(1)しかやっていなかったのである。
ただただ意味を追い、面白いか面白くないかを表面的に享受しているだけだった。
 
しかし(2)まで思考を伸ばしてみると、何冊も読んだ作者が繰り返し繰り返し扱っていたテーマが浮かび上がってくる。
そこから更に、そういったテーマや、文章に散りばめられた数々の表現、取扱事象の癖を通じて、作者自体がどんな人なのであろうかという(3)への興味に繋がってくる。
 
この作者はどんな人なんだろう、どんな生活をしてきたから、どんな時代背景、どんな周辺環境、どんなタイミングだったからこれを書いたんだろう、と思考をふくらませていくと、またそこに作者の人生というドラマ性が浮き上がってくるではないか。
 
ドラマ性がある文章は、フィクションノンフィクションだけではなかったのだ。
 
さらに、作者をより深く知るためにはこの領域の情報を理解したほうが良さそうだと、専門書に手を出したりすることで、世界がどんどん広がってくる。
 
気付けば、私にとって紀行文や評論文、詩歌も面白いと思う対象に変化していた。
ただ事実の文字面を追うのみだった新聞さえも面白く読めるようになった。
ありとあらゆる文章が、興味深い対象に変換した。
 
読むということは、こんなにも面白いことだったのか!!!!!
目からウロコとは、開眼とは、こういうことかと、まさに視界が晴れていくような心持ちだった。
 
とはいえ高校時代通じて現国の成績はメタメタだったし、作文の評価もボロクソだったし、最後センター試験の国語も最悪で未だに夢に出るぐらいの点数を叩き出すなど、短期的な成績面には全く反映されなかったけれども、それが気にならないぐらい「読むという行為は面白い」という思いが揺らぐことはなかった。
 
そんな衝撃を私に与えてくれた本が、先日亡くなられた橋本治さんの『浮上せよと活字はいう』である。


この本が橋本治さんの代表作としてあげられることはほぼ無い。
Amazonを見ても古書しか取扱がなく、事実上の絶版なのだろうと思われる。
 
でも私にとっては最上の、文章を読むという行為を教えてくれ、視界を、いや世界を広げた、導きの書なのである。
 
改めて橋本治さんに追悼の意を、そして最大の感謝を。

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