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日本の歴史にはなぜか重要な情報が伝えられていない。-南京事件編-

南京事件は、第2次上海事変(1937年8月13日)により始まった中華民国軍と日本軍の戦いの延長でおきたことを南京大虐殺という人々は隠します。

第2次上海事変は、蒋介石の主力10個師団余が 20万の兵力を集中し、
5千余の日本海軍陸戦隊と 10万余日本人民間人(女性・子供を含む)を
全滅させようと企図した事件です。

南京大虐殺という人たちは強行軍の疲れで統率力を失ったと嘘をつきますが、日本軍が南京に侵攻した 1937年12月13日の前日は、日本軍は南京防衛軍の降伏を整然と待っていました。

1937年(昭和12年)12月11日付け 朝鮮新聞

中山門外に整然と整列し、今まさに南京に入場せんとする富士井部隊。

支那事変画報 1937.12.13撮影 朝日新聞社

中国の降伏拒否の回答は毒ガス攻撃でした。

毒ガス攻撃をしていたのは中国です。

松井大将は 中国人民間人の保護を命令していたため、民間人を虐殺したら命令違反で日本軍により厳罰が科せられていました。

中国人が餓死しなかったのは

南京の難民区のラーベ委員長は
『13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが(中略)もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう』と第6文書 ラーベの手紙に書いていました。

日本軍は1937年12月14日から良民証の発行作業を行い、子供を除く南京市民に善良な市民である良民証を 16 万枚発行しました。
第一に、市民と市民を装った敵軍とを区別するため、第二に、人数に応じた食料を提供するためでした。
中国の国民であれ捕虜であれ、餓死した人は一人もいませんでした。
日本軍はそれを自慢することはありませんでした。
まるで日本軍は聖書のみ言葉を知っていたかのようです。

人に親切にする時は、右手が何をしているのか左手でさえ気づかないくらいに、こっそりとしなさい。-マタイ6-3~4-

1937年12月24日までにほとんどの部隊が南京から出て、残ったのは4000人の警備兵でした。

1937年12月23日に南京自治委員会が設立され、翌年から南京自治員会による自治が始まりました。

ひと目でわかる「GHQの日本人洗脳計画」の真実

日本軍が南京に侵攻した2ヵ月後に、
日本の医療チームが南京市民に天然痘とコレラの無料接種を始めました。
9ヵ月後には36万数千人の南京市民が日本の医療チームから予防接種を受けたのです。

南京での予防接種は1938年4月末〜9月末まで行われ、当時の日本軍の報告書も残っています。 総数36万数千人、遠隔地域を除き南京市内の『コレラ予防接種』は完璧に近い成果をあげました。 こちらはネットで公開されてるので、誰でも実物を観る事ができます。

https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B05015319600

なぜこれだけの人が日本軍のワクチンを受けたのでしょう。
中国国民党軍は細菌戦をしていた影響もあるのかもしれません。
蒋介石は便衣隊をして前線に近い野菜畑や井戸等にコレラ菌を散布。
皇軍はそのことを知り防疫を講じたが、無知な支那人は注意も聞かず衛生思慮の全くない彼らに多数の死者が出た。

朝日新聞 1938年8月13日

こちらは重慶軍(中国国民党軍)のお話です

1942年(昭和17年)06月03日 朝日新聞

記事部を拡大してみましょう。
炎天下、全身ゴムの作業服でペスト撲滅のために挺身する日本軍の手厚い看護で一命をとりとめて感泣する中国兵も多かったようです。

この写真だけを利用して731部隊の人体実験と日本の教授や中国共産党関係者たちが、発信していますので注意が必要です。

写真の誤用と言えば、笠原十九司氏の『南京事件』でもありました。

「江南地方の農村婦女が一群また一群と日本軍司令部まで押送されて行き、陵辱され、輪姦され、銃殺された」とキャプションしたが、実際はアサヒグラフ「日の丸村の女子供たち」だったので謝罪し、改訂版を発行しています。

1937年11月10日 アサヒグラフ の写真をカラー化したもの

実際のキャプションは笠原教授のキャプションとは真逆でした。

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