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本日 #共同親権祭り #国賠提訴

3万字にもなる養育権侵害・非婚差別主張の法律論中心に公開いたします!!

※2020.2.22再公開時注:訴状の正式公開版は、そうだったのか!共同親権の下記サイトになります


2 親の養育権は基本的人権であること


 子を養育する意思と能力を有する親が子を監護・養育する権利は(以下、養育権、という。)、自然権であり、憲法13条の幸福追求権として憲法上保障される基本的人権である。親が子を養育し子が親から養育を受けることは人が人として行うごく自然な人格的な行為であるから、同自然的な関係が憲法上保障されることは言うまでもないことであると思えるが、念のため、以下述べる。
 親の養育行為は親子という自然的関係に基づく親子間の活動であり、それ故、親の養育権は親子が親子である権利である。「子」という日本語は、「親」と対になる意味での「子」と、幼い者という意味での「子」の意味がある。この両者は意味が全く異なるものでありながら、偶々同じ単語が使われているため、子の権利の文脈では混同されがちである。本訴訟において特に意識すべきであるのは主に前者の意味であり、子が子であることの権利、すなわち、親子が親子であることの権利である。ただし、親子という意味での「子」は、養育を受ける時期においては幼く自身の権利主張が困難であることがあり、また、親子関係は特に子が成長する過程において重要な利益であるから、この意味での後者の意味での子の利益も親子の権利は包含することになる。
 養育の意思と能力を有する親が子を養育し子がその親から養育を受けることは、親子という自然的関係に基づいた極めて人格的な活動である。これが基本的人権として保障され、不当に侵害を受けないことは、自然権として当然のことである。
 最高裁大法廷昭和51年5月21日判決(旭川学テ判決)は「子どもの教育は,子どもが将来一人前の大人となり,共同社会の一員としてその中で生活し,自己の人格を完成,実現していく基礎となる能力を身につけるために必要不可欠な営みであり,それはまた,共同社会の存続と発展のためにも欠くことのできないものである。この子どもの教育は,その最も始源的かつ基本的な形態としては,親が子との自然的関係に基づいて子に対して行う養育,監護の作用の一環としてあらわれるのである」と判示した。同判決の論理は、子どもの教育の基本的形態は親が子に対して行う形態であると述べており、これは親子の自然的関係に基づく養育・監護作用の一環であるからであるというものである。「教育権」の主体や捉え方については理解が必ずしも一義的ではないかもしれないが、すくなくとも、親子が自然的関係に基づいて養育・監護を行うことは当然の前提となっている。日本でも、親子間の養育関係は まさに自然権的に捉えられているのである。
 この点につき、日本以外の例に目を向けてみる。大森貴弘「翻訳:ドイツ連邦憲法裁判所の離婚後単独親権違憲判決」常葉大学教育学部紀要<報告>425頁(甲16)においても、「諸外国に目を転じると,ドイツでは子を育成する親の権利は自然権とされ,憲法でも明文化されており,アメリカでは平等原則と適正手続により親の権利が人権として認められている。日本国憲法には親の権利についての明文の規定はないが,親子の自然的関係を論じた最高裁判決(旭川学テ判決)が存在していることや人権の普遍性等を根拠として,憲法上認められうると解される。」と指摘されている。同指摘にあるように、まさに前述した親子の自然的関係に直結した養育活動は、国や民族、文化に左右されない普遍的な人権であるといえる。加えて、同じく指摘されているように、日本においても、前述の旭川学テ判決の論理のように親子の養育関係を自然権的に捉えていることも、同普遍的権利が存在することと矛盾しない。
 次に「児童の権利に関する条約」について言及する。「児童の権利に関する条約」は、18歳未満のすべての人の基本的人権の尊重を促進することを目的として、1989年の国連総会で、全会一致で採択されたものである。そのため、条約の内容は、18歳未満の者の基本的人権に関連するものであるといえる。2019年8月現在、同条約は、署名国・地域数140、締約国・地域数196のようであり、日本は、1990年9月21日に条約に署名し、1994年4月22日に批准しているようである。同条約第7条1項で「児童は、出生の後直ちに登録される。児童は、出生の時から氏名を有する権利及び国籍を取得する権利を有するものとし、また、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。」と規定され、同条約第8条1項は「締約国は、児童が法律によって認められた国籍、氏名及び家族関係を含むその身元関係事項について不法に干渉されることなく保持する権利を尊重することを約束する。」とし、同条2項で「締約国は、児童がその身元関係事項の一部又は全部を不法に奪われた場合には、その身元関係事項を速やかに回復するため、適当な援助及び保護を与える。」と規定する。また、同条約第9条1項に「締約国は、児童がその父母の意思に反してその父母から分離されないことを確保する。ただし、権限のある当局が司法の審査に従うことを条件として適用のある法律及び手続に従いその分離が児童の最善の利益のために必要であると決定する場合は、この限りでない。このような決定は、父母が児童を虐待し若しくは放置する場合又は父母が別居しており児童の居住地を決定しなければならない場合のような特定の場合において必要となることがある。」とある。上記同条約7条をみると、氏名・国籍を有する権利と同じ条文の中で、児童が父母を知り父母に養育される権利を規定している。氏名の保有など人としてごく基本的な地位と合わせて父母から養育を受ける権利を規定していることは、これがすべての人に与えられた基本的人権であることが前提となっていると考えられる。また、上記同条約9条1項によると、父母の意思に反して児童が父母から分離されることについて、司法審査を前提とした法及び手続に従うことが求められている。このように権利の制約について厳格な手続を要求されているのは、父母から養育を受ける権利が基本的な人権であるからにほかならない。上記のとおり、同条約は、多数の国・地域が署名又は締結する基本的人権に関するものである。そのため、同条約について日本が批准しているかどうかや日本国内での効力にかかわらず、児童が父母から養育を受ける権利は国・地域を問わず人が本来的に享有しているべき基本的人権であることは疑いようがない。そして、いうまでもなく、未成熟の子が父母から養育を受けることと、父母が未成熟の子の養育をすることは、行為として同一の行為であり切り離せないものである。
 以上のことから、親の養育権は、自然権であり、憲法13条が幸福追求権として保障する基本的人権であることは明らかである。
 さらに蛇足的な指摘かもしれないが、別の観点から一点述べる。自然権は人が本来的に持っている人格的な最低限の利益であるから、立法事実や社会情勢に左右されないことが基本であるが、見解によっては、もしかすると、立法事実に踏まえて社会の状況に応じてあえて人権として保障すべき権利が存在するかもしれない。この点に関連するのが、現在大きな社会問題となっている児童虐待の問題である。中澤香織「家族構成の変動と家族関係が子ども虐待へ与える影響」『厚生の指標』59巻5号(甲17)によると、5年度に北海道内すべての児童相談所において受理された虐待相談件数のうち、5歳、10歳、14・15歳の129例を対象とし、各児童相談所を訪問した研究班メンバーが児童票から必要事項を転記するという方法で行い、個人情報保護が可能な形に整理できた119例を分析したものである。その22頁に掲載されている「表2家族類型別の主な虐待者」においては、虐待総数119件の内、ステップファミリー29件(内継父実母24件、実父継母5件)、父子3件、母子49件とされており、その合計件数が,実父母家族における虐待件数33件を大きく上回っている。ここで述べたいのは、同居する児童を虐待する大人について、父が多いとか、母が多いとか、あるいは父母の配偶者が多いなどの分析ではない。同居の児童を虐待する大人には、父もいれば、母もいれば、これ以外の者もいる。しかし、そのような虐待に気が付き保護することが最も期待できるのは、その意思や能力から、一般に、実親である父母なのである。上記データは、実父母が揃って虐待をしてしまったケースが相対的に少数であることを示しており、逆に、実父母双方による監視・保護権が何らかの理由で十分に機能しなかったケースが多数を占めていることを示す。この意味でも、現在養育権の侵害は社会問題であるともいえる。
 以上の社会的な実態は、親の養育権保障が後述のように侵害されている結果であると捉えることが自然であるが、逆の観点から、上記社会実態は、まさに、今こそ、親の養育権が人権として保障されていることを確認すべきであることを示す実態であるともいえる。そのため、人権の存在を訴える本項目においても指摘しておきたい。

3 現状の法は親の養育権を侵害するものであること


 (1) 非婚父母の単独親権について
   民法は、「親権の効力」として、「親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う」とし(民法820条)、子は、親権を行う者が指定した場所に、その居所を定めなければならない(民法821条)。同規定によると、「親権」は、子の監護、教育のあり方を決定し、監護の中心的な要素である居所も決定するものであるから、親の養育権をそのまま具体化した権利であるともいえる。
  しかし、民法818条第1項は「子は、父母の親権に服する。」としながら、同条3項において、「親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。」としており、非婚の父母のいずれか一方は親権者となることができないようになっている。なお、ここでいう「非婚」とは、法律婚状態にないことを指し、未婚、離婚後、事実婚等を含む(以下、本訴状において「非婚」とはこの意である。)。前述のように親権が養育権をそのまま具体化した権利であるとすると、非婚の父母は単に非婚という理由だけで養育権を侵害されていることになる。そのため、民法818条第3項の「父母の婚姻中は、」の部分及び同規定を前提とする民法819条は養育権を侵害する規定ということになる。
  以上のとおり、「親権の効力」の規定を字義通りに捉えると、上記の単独親権制度は端的にそれ自体が親の養育権を侵害する制度であるといえ、本訴訟においても主位的にはこれを主張する。ただ、「親権」はあくまで養育権の調整システムとして第1次的な役割を定めたものであるに過ぎず、父母双方に潜在的な養育権が存在しこれが尊重されるのであれば、必ずしも単独親権自体が養育権侵害とはならない、とする見方もあるかもしれない。しかし、このような見方で単独親権が養育権侵害にならないといえるためには、立法上もその運用上も、父母双方の養育権が尊重され、かつ、父母間の養育権を適切に調整する制度が実現していなくてはならない。以下、予備的にこの点を述べる。
 (2) 非親権者の同意不要の代諾養子縁組について
  親権者は子の法定代理人であり(民法824条)、「養子となる者が十五歳未満であるときは、その法定代理人が、これに代わって、縁組の承諾をすることができる。」(民法797条1項)。「法定代理人が前項の承諾をするには、養子となる者の父母でその監護をすべき者であるものが他にあるときは、その同意を得なければならない。」(同条2項)。これらの規定により、親権者は、15歳未満の子の養子縁組を代諾で行うことができ、他方の親は子を監護すべき者でない限り、これを拒むための同意権もない。
  運用としても、本来、面会交流や養育費の支払いも「子の監護」の一環であるから(民法766条1項)、子との面会を求める父母や子への養育費を支払う父母がある場合、「父母で監護すべき者」として同意権を与えるべきにも思えるが、これらの者は同意権(拒否権)がないものと扱われている。
  以上の法律及び実態は紛れもなく親の養育権の侵害である。そもそも、共同親権であるか単独親権であるかにかかわらず、親権は原則的に「父母」親権の枠組みとなっており(民法818条1項)、非婚父母においても、同枠組みの中で、父母間の親権者の変更・指定の可能性を残しながら(民法819条各号)、子の監護に関する処分一般について父母間の協議事項・調停・審判事項とする(家事事件手続法39条、同法別表二、民法766条)。つまり、単独親権制の下でも、父母間の養育権の調整規定自体は設けられており(この立法が不十分であり適切に機能していないこと及びその理由は後述)、その前提の状態が民法818条1項の「父母」親権の枠組みなのである。しかし、上記の代諾養子縁組がなされると非親権者である親の意思に反して、非婚父母間の養育権調整機能の前提となる「父母」親権の枠組み(818条1項の枠組み)から外れ、養親親権の枠組み(同条2項の枠組み)に移行してしまう。この大きな枠組みの変更を如実に表す判例が、最決平26年4月14日(裁判所時報1602-1)である。同判例は、たとえ、実親の一方に親権が存していても、養子縁組により養親が親権を有する以上、父母間の規定である民法819条の適用はなく、親権者変更はできないことをはっきり述べたものである。また、面会交流等の子の監護に関する処分についても、本来父母間の規定であるにもかかわらず、父母ではない養親も当事者にすべきという運用がなされている。これについては、類推適用そのものに問題があるというよりは、同運用によって、そもそも、誰にいかなる権利があることを前提として審判を下すべきかが不透明なまま場当たり的な運用にならざるをえない点である。(なお、本筋からそれるが、現状、婚姻中の養親同士又は養親と実親の共同親権が認められているが、なぜこれが認められるのか。民法818条各号の枠組みからすると疑問である。前記最高裁決定のように養親に対する親権者変更について父母間の規定である819条の適用を排除することはこれ自体条文解釈としては自然であるが、そもそも養親を含む共同親権を求めることが婚姻中の「父母」の規定を不自然に適用しているように思う。)
  以上のように現行法及び運用は、父母双方の意思によらず、民法818条1項の「父母」親権の枠組み自体から外れてしまうことを許容しているものである。父母が父母であるという基本的な枠組みからも外れ、実際にも、親権者になる機会すらも失ってしまうのである。ここには、潜在的な意味においても父母の養育権の尊重はない。この問題は養育権侵害の重大性、明白性が顕著であるから最初に述べた。
 (3) 民法766条1項について
民法766条1項は、離婚の際の面会交流、養育費等の子の監護に関する事項を協議する旨規定している。本条は、婚姻が事後的に解消されるケースに加えて父母が婚姻をしていない場合を含むすべての非婚父母に準用されている(民法749条、771条、788条)。
 父母間で子の監護についての具体的な内容を協議することは、単独親権の下、双方の養育権を調整する上で必要な協議であるということである。単独親権によりすくなくとも第1次的には子の養育の決定権を持つ親は父母の一方のみとなり、そうであるからこそ、潜在的な養育権を有する父母間で子の養育の内容を取り決めることは必須なのである。この協議又は裁判所の判断が、子の監護の意思を有する父母においては必ず実施され、かつ、判断において父母の養育権を対等に調整していく枠組みが存在していれば、養育権保障のための措置になり得る。さらに言えば、父母の養育権を尊重する形で親権者の指定・変更自体が可能である点において、もしかすると、単独親権制は親の養育権を対等に調整する方向で、親権者指定・変更の判断の枠組みを明確に立法で打ち出せば、むしろ父母の養育権を最大限に尊重することのできる画期的な制度として各国の模範になりえたかもしれないのである
 しかし、現実には子の監護に関する事項の協議が存在しない非婚は存在し、また、離婚時においても実質的な取り決めがなくても離婚は可能であることは公知の事実である。また、裁判離婚においても、附帯処分として申立てをしない限り子の監護に関する事項は判断されない。本来、特に親権に争いがあるケースでは、養育費や共同監護を含む子の面会交流の在り方を親権者候補同士が議論しなければ、親権者を判断しようがない。こうした考えに近いルールをフレンドリーペアレントルールなどということがある。フレンドリーペアレントルールという言葉は、その語感から離婚父母が殊更に仲がよいことを求めているかのように誤解されがちであるが、実際は、(たとえ父母間の関係に悪感情などがあっても)父母双方との親子関係を最大限保障するという、単独親権制のもとでは当然ともいえるシステムなのである。であるにもかかわらず、多勢の裁判傾向は、双方が親権者となることを希望し積極的な方針を打ち出しているにも関わらず、まず消極的な理由で親権者を先に決めた上で、双方が子を養育する形とはほど遠い狭い意味での面会交流の問題に話を落とし込む傾向がある。これは、子の監護に関する附帯処分の申立てをした場合でも傾向としては変わらない。双方の養育権を保障し調整する実態は存在しないのである。
 有名な近年の裁判例を挙げる。千葉家裁松戸支部(平28年3月29日判決、判時2309号121頁)は離婚等請求事件の判決において、被告である別居親が「緊密な親子関係の継続を重視して、年間100日に及ぶ面会交流計画を予定している」ことを指摘して、子が「両親の愛情を受けて健全に成長することを可能とするために」上記面会交流方針を有する被告を親権者に指定し原告に対し子の引渡しを命じた。しかし、同控訴審判決である東京高裁平成29年1月26日判決(判時2325号78頁)は、上記の原審の判断を取り消した。その理由は「未成年者の親権者を定めるという事柄の性質と民法766条1項、771条及び819条6項の趣旨に鑑み、事案の具体的な事実関係に即して、これまでの子の監護養育状況、子の現状や父母との関係、父母それぞれの監護能力や監護環境、監護に対する意欲、子の意思その他の子の健全な生育に関する事情を総合的に考慮して、子の利益の観点から父母の一方を親権者に定めるべきであると解するのが相当である。」「父母それぞれにつき、離婚後親権者となった場合に、どの程度の頻度でどのような態様により相手方に子との面会交流を認める意向を有しているかは、親権者を定めるにあたり総合的に考慮すべき事情の一つであるが、父母の離婚後の非監護親との面会交流だけで子の健全な生育や子の利益が確保されるわけではないから、父母の面会交流についての意向だけで親権者を定めることは相当でなく、また父母の面会交流についての意向が他の諸事情より重要性が高いともいえない。」というものである。同高裁判決はその後確定している。同高裁の判断には、父母双方の養育権が対等であるという前提は当然なく、また、「面会交流」が養育行為であるという認識にも欠けている。上記判決の事案は父母どちらにも虐待があると認定されているわけでもなく、父母双方の養育の意思と能力が認められている事案である。こういった事案においては、父母双方の養育を受けることを確保することが双方の愛情と養育能力が生かす道であり、逆にこの点以外に司法判断の必要性が乏しいといえる。すなわち、父母の養育能力が十分である事案において、後述のとおり何らの立法的な判断基準も与えられていない中で、「総合的に考慮」などと言ったところで、いったい何を司法が判断するのか。適切な感覚をもつ裁判官であれば、狭い意味での養育行為や養育方針について、親以外の者が良し悪しを判断すること自体が不適当であることは分かるはずである。また、子の意思や子との関係性と言ったところで、未成熟な子が双方の親と十分な関りをもっていない環境の中では、子の自己決定の前提を欠いていることも分かるはずである。だからこそ、上記裁判例のような事案は、双方の養育権の調整こそが残る重要解決課題なのである。そうすると、司法の選択は、養育権の調整をするかしないか、これだけである。この点、上記第1審の地裁判決は、司法判断としては珍しく、養育権を対等に調整「した。」。これに対して、高裁判決は、本来「子の監護に関する処分」であり養育権調整の問題あるはずの「面会交流」を、単に親子が面会する機会程度に捉えてしまっているため、同事案においてはほぼ唯一の解決課題であるはずの養育権の不均衡について、「他の諸事情より重要性が高いとはいえない」としてしまった。要するに、対等な養育権調整を「しない」としたのである。とするともう結果は明白である。養育の能力の意思も有している父母について、その良し悪しを適切に判断することなどできるはずもなく、結局消極的に現状維持の結果を導いてしまったのである。このように、日本では民法766条は、父母の養育権を対等に調整する役割をまったく果たしていないのである。
 なお、現状維持の判断は、個別の裁判官の判断の問題だけではなく、現状の単独親権立法による起こるメカニズム的な問題であることは後述する。
  (4) 養育権に関わる判断の評価基準が設定されていないこと
前記のとおり、単独親権制度における父母の養育権の調整機能は親権者の指定及び子の監護に関する処分の決定である。しかし、これらの判断のために裁判所に与えられた判断基準は、「子の福祉」「子の利益」の一言である(民法766条、同法819条)。これは司法の役割を超えた無理のある基準である。いかに家庭裁判所が後見的な機能を有するとはいえ、あくまで、立法府によって制定された法律の解釈・運用の範囲の中で行うものである。「子の利益」「子の福祉」などというその内容も不明確で価値観によってあまりにも幅のある基準は、司法の役割との関係では基準ですらない。さらにいえば、価値判断の主体を曖昧にしたままの絶対的な子の利益判断、いわば裸の「子の福祉」判断は、親子の自然的関係を侵害する危険な枠組みであるともいえる。本来、前述の学テ判決の論理などからすると、積極的な意味での「子の福祉」は判断権者である親の評価を通じてしか存在しないはずである。たとえば、虐待など親の養育権の逸脱事例においては、子どもの人格権保護という意味において消極的な意味での「子の福祉」の形は判断しやすい。一方で、子がどのように生活し、どのような教育を受け、誰と関わっていくか、などの積極的な利益判断については、子の利益は一義的ではない。だからこそ、親がこれを評価し判断していくのであり、司法の役割との関係では、親の養育権を最大限の尊重する形で調整していくことこそが「子の福祉」なのである。この意味で、親の養育権の調整の役割を果たす司法判断において、「子の福祉」が何らの基準になっていないことは明白である。養育権調整のためには、せめて、いかなる要素を考慮すべきか、反対にいかなる要素は考慮してはならないのかを、国民の意思を反映した立法作用により定めていくのが本来的な姿である。
 例として、平凡社出版、コリンP・A・ジョーンズ著『子どもの連れ去り問題』初版の142頁からの記述を引用する。同書には、「カリフォルニア州法では、裁判所が夫婦別居後の子どもについて判断するにあたって「子どもの最善の利益(best interests of the child)」は何かということが基準になっている」「カリフォルニア州の場合、まずは総則規定として、州立法府の明確な意思表示がある「両親が別居し、婚姻関係等を解消した後に、子どもが双方の親と高頻度かつ継続的な接触を持つ子の確保並びに双方の親による子どもを養育する権利と義務の共有を促進することが本州の政策である」(カリフォルニア家族法典第3029条(b))」との記述がある。この総則の存在だけでも、子どもの最善の利益の中身が示されている。さらに、同書によると、カリフォルニア州法では、親権(監護権)者の選定基準も明記しているようである。同書に記載されているものを一部挙げると、「親の性別を判断基準にしてはならない。」「裁判の時点でどちらの親が子どもと同居しているかということを判断基準にしてはならない。」などである。ここには、まさに日本が陥っている内容が含まれている。上記をみると、日本の現状の運用は、日本や日本の裁判官が特殊で異常ということではなく、判断基準が曖昧な中で誰しもが陥りやすい判断がなされているだけであるということが分かる。とはいえ、ここで述べたいのは、何もカリフォルニア州の規定が絶対的に正しいとか十分であるということではない(このことは同書の著者自身も述べている。)。子の福祉という曖昧な基準はそのままでは親子関係を保障するための基準にはなりえないことである。子が双方の親から養育を受ける機会が与えられるためには、当然親の養育権が対等に保障され適切に調整しなければならないところ、そのためには、知恵によって生み出された適切な「仕組み」が必要なのである。
 しかし、日本では判断基準が一切存在しない「無法」状態であるといえる。法の欠缺の中で実際に養育権保障とはほど遠い裁判実務が存在する。以下実務の傾向を述べる。
  ア 争いのある親権者・監護者指定の手続においては、双方の親の養育に関する基本的な方針が対立しているのであるから、親がそれぞれ積極的な子の利益を打ち出している場面である。この場面では、双方の親の打ち出す積極的な子の福祉に関わる方針を最大限尊重する形で調整することが肝要である。しかし、前述のとおり何らの判断基準が存在しないためか、親権者・監護者の指定の場面では、現状の監護状況について監護親に明白な養育権の逸脱状況ない限り、現状を維持するという極めて消極的な判断を行っている。別居親の方針は対等に比較されることがなく、その養育権はないがしろにされている。
  これは現在の養育権に関する立法の欠缺からくる当然の帰結といえる。裁判所は、父母の養育能力がいかなるレベルにあっても、離婚や非婚で父母の協議が整わない限り、必ず一方の親権を否定し、一方を親権者に指定しなければならない。これがたとえば、父母の一方だけが親権停止事由にあたるような養育能力に問題がある事例であれば、裁判所の指定は適切に機能するかもしれない。しかし、現実にはもちろん、父母の能力が双方ともに問題のない事案(基本的にはこの事案が多数を占めていると思われる。)もあれば、逆に父母双方ともに養育能力に疑問のあるケースもある。このような場合、特に前者の場合、裁判所はどう対応すればよいのか。親の養育に関する判断や方針を何らの立法による指針もないまま第三者が絶対的な視点で優劣をつけることができるわけがないし、また、これを国が行うこと自体養育権に対する侵害である。だから、現在の親権者指定実務は、現状監護している親に大きな問題がないという消極的理由でその親に親権を認め、反射的に他方親の親権を奪うという運用が行われているのである(なお、ややこしい話をすると、現場の裁判官は以上のような現状維持判決が生じるメカニズムを理解せず慣習のように判決を出していることがあるため、実際は消極的に現状維持の判断をしているにもかかわらず、現状維持を表向きの理由とすることを避けるために、判決理由において別居親の養育判断に不当に介入しこれを否定する内容の離婚判決がままみられるという、捻じれた現象も起こっている。)。
 そうであれば、離婚を希望する親は親権を得るためにどうするか。たとえ、自身の養育能力に問題がなくても、他方親に一定の養育能力があれば、自身の親権は危うい。ましてや、先に自身だけが別居をし、配偶者の監護が「現状」になってしまうことは避けなければならない。そのため、養育能力の対等な比較を避けるために、先に子を連れ去って別居し、自身で単独監護を開始してしまうのである。
  現状のように判断基準があいまいなまま、司法にその役割を超えて、いわば無茶な親権者指定を任せていることが、子の連れ去り行為、すなわち、他方親の意思に反して子がそれまで暮らしてきた居所を一方的に変更する行為を助長しているともいえる。
イ 一方で、面会交流の手続は、親の養育権の行使が妨げられている場面(親子関係が阻害されている場面)であるから、基本的に親子関係を回復することこそが養育権の調整である。その結果、子の福祉が実現されるだけである。しかし、面会交流事件の実態は、なぜか裁判所の判断が積極的になり、面会の実現、拡張を求める親の人となりや行動などを、絶対的な視点から評価を下すようなことが行われている。前記親権者・監護者指定の例と比較すると、養育権を喪失又は制限する手続においては、特に現監護者の方針や実績を精査すべきであるにもかかわらず(ただし現状の立法ではこの精査の指針が皆無であることは前述。)この判断を極めて消極的に行う一方で、なぜか、父母の養育権を両立させるだけの手続においては別居親の人となりのような部分まで積極的に介入してしまうという不公平なことが行われているのである。ここは完全にチグハグは運用といえる。また、裁判実務においては、面会交流を制限する事由として、父母の葛藤があげられることがある。このような考え方は共同監護や面会に否定的な親にとって葛藤を軽減するのと真逆の行為規範となってしまう。
 以上の面会交流事件に関する裁判所実務は、面会交流を、「面会」という言葉故に、単に親子が「会う」という狭い認識で捉えているのではないか。子が月に1回一緒に住んでいないお父さんかお母さんと出かける、くらいのイメージである(実際はこの程度のことも裁判所で確保してもらえない別居親子も多数いるが。)。しかし、面会交流は、子の監護(養育)に関する事項である。親子の養育関係は、親子が「会う」ことではない、親子が親子として「いる」ことである。親子として一緒に「いる」状態は一様ではなく様々であるが、基本的な形態は複数の日に渡って親子が寝食をともにすることではないか。月に数時間のお出かけでは養育関係とはいえないだろう。現在の面会交流実務は、この点の基本的認識がない。面会交流が親子関係に基づく子の養育の問題であり、双方の養育権を適切に調整するものであるが、この役割についての認識がないのである。これは、判断基準についていわば無法状態であるがゆえに、そもそもの手続の意義すらも曖昧になったまま、考慮すべき事項と考慮すべきでない事項の区別なく場当たり的な運用になっているからであるといえる。
ウ 以上裁判所の判断の傾向を述べた。個別事案だけをみても、養育権保障・調整の視点を欠く判断は枚挙にいとまがないが、それにもかかわらず、曖昧な「子の福祉」を表面的な理由としているために、個別的事例だけをみれば判断理由がもっともらしくみえてしまうこともある。ただ、全体の裁判傾向を、養育権保障(親子関係保障)、行為規範等の観点からみると、その判断は場当たり的でいびつなものとなっていると言わざるをえない。
ここで、付言しておきたいのは、裁判実務にかかわる裁判官、家庭裁判所調査官、調停委員等が、必ずしも、親の養育権を侵害するという悪意をもって実務に臨んでいるわけではないことである。むしろ、親に対しても子に対して善意で臨んでいる方が多いと思われる。それでも、全体として、前記のような養育権保障・調整とは程遠い実務が存在してしまっている。
 これは、そもそも、親権・監護権の指定、子の監護に関する処分の判断について、立法の内容が実質として何らの判断基準を司法に与えない、司法の限界を超えてしまっているところに根本的な原因があるのである。
(5)子の居所を把握する権利・利益すらも否定されていること
 子の生活の場所、生活の態様についての決定に関わることは、親の基本的な養育行為である。このこと以前に、当然親は子の居所を把握することが保障されるべきである。すなわち、子と暮らす者(他方親を含む。)は子の親の求めに応じて子の居所を伝える義務があるというべきであり、また、当然国家は親が子の居所を把握する権利を侵害してはならない。具体的には、子と同居する者が親に対して子の居所を秘匿するためには正当な理由について司法判断が必要であるし、また、国家が親の居所の把握を妨げるのであれば、その権利制約を認める明確な実体的な要件とその判断にあたっての適正な手続保障が必要である。しかし、我が国では親が子の居所の決定に関与する権利どころか、子の居所を把握する親の権利・利益すらも認められているとはいえない。
   このことを表した裁判例を挙げる。
 平成30年4月25日名古屋地方裁判所判決(事件番号:平成28年(ワ)第3409号)は、原告が、妻である被告に対し、原・被告間の子に対する面会交流審判に基づく履行をせず、(DV保護法に基づく)支援措置を行い、面会交流を妨害したこと等による債務不履行・不法行為に基づく損害賠償請求を行うと同時に、被告(県)に対し、被告が支援措置要件を満たしていないのに同要件を満たすとの意見を付すなどしたとして国賠を求めた事案である。これに対し、判決は、被告(県)に対する請求の判断にあたり、「しかしながら,援助の中には,加害者とされる者に対して申出者の住所又は居所を知られないようにすることなど(DV被害防止援助規則1条2号),加害者とされる者の権利利益に影響を及ぼす援助も含まれているのであるから,これについても他の援助と同列に考えられるかについては,更なる検討が必要である。しかして,警察署長等は,上記援助の具体的措置の一つとして,支援措置申出について意見付記を行うが,警察署長等が要件充足の意見を付した場合には,支援措置をするとの取扱いがされているのであるから(前記2 (1)),警察署長等の上記意見は,支援措置を開始させる蓋然性が極めて高い行為である。また,支援措置は,加害者とされる者による住民票の写しの交付請求等について,原則として,不当な目的があるものとして請求を拒否し,又は住民基本台帳法12条の3第1項各号に掲げる者に該当しないものとして申出を拒否するとの取扱いをする制度であるから(関係法令の定め等(2)エ),加害者とされる者の権利利益を事実上制約する性質を有するものである。以上によれば,警察署長等が支援措置の要件を充足する旨の意見を付することは,運用上の事実的効果として,住民票の閲覧等請求権の行使を困難 にするという不利益を生じさせる蓋然性が極めて高い行為であると認められる。」「続いて,警察署長等による意見付記の根拠規定であるDV防止 法の保護法益について検討するに,確かに,DV防止法は,配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護を図ることを目的とする法律であり(前文),DV防止法8条の2も,主として被害者の権利利益の保護のために設けられた規定である。しかしながら,DV防止法に基づく規制は,他方において加害者とされる者の権利利益を制約することから,同法は,加害者側に生じる不利益に応じて,一定の 手続関与を保障するなど(14条1項本文参照),加害者側の権利保障にも配慮している。以上によれば,DV防止法は,同法に基づく措置の不利益性に応じて,加害者とされる者の権利利益(不当な制約を受けない利益)も保護法益としていると解するのが相当である。」として、「以上によれば,警察署長等は,DV防止法8条の2に基づき, 加害者とされる者の権利利益を事実上制約する援助を行うに当たり,同人との関係でも職務上の法的義務を負っていると解すべきであると述べている。」と述べている。同判決が「加害者とされる者の権利利益」として、親が子の居所を把握する権利・利益想定しているのかどうかは定かではない。全体として、配偶者の住民票等の交付請求と子の住民票等の交付請求を権利として分けて検討している様子はない(これらは事実上同じ居所であっても権利としては明確に分けて検討するべきである。)。また、同判決がDV保護法8条の2の援助が、加害者とされる者に対する「処分」として適正手続の保障まで認めているとはいえない。しかし、同判決は、少なくとも居所秘匿等により制約される権利利益の存在は認めている点で、親が子の居所を把握する権利・利益へ一定の配慮をしている。
 ところが、同控訴審である平成31年1月31日名古屋高等裁判所判決(事件番号:平成30年(ネ)第453号)は、上記第1審の考え方を完全に覆してしまった。同判決では、「支援措置を定めた住民基本台帳法及び住民基本台帳事務 処理要領の趣旨は,DV防止法1条1項に規定する配偶者からの暴力及びこれに準ずる行為の被害者の保護のため,加害者が,住民基本台帳の閲覧等の制度を不当に利用してそれらの行為の被害者の住所を探索することを防止し,もって被害者の保護を図ることにあり,専ら,被害者に対する関係での関係機関や警察署等の行為規範を定めたものであり,加害者とされる他方配偶者に対して,関係機関 や警察署等が職務上の法的義務を負うことは想定していないというべきである。当該申出者が支援措置の要件に該当するとの警察署等の意見についても,その意見が付されたからといって,直ちに加害者とされる他方配偶者の権利又は法的利益を侵害することになるものではなく,支援措置の必要性の判断は,当初受付市町村の長が行うものであるから(同事務処理要領),警察署等が,支援措置の意見を付するに当たり,加害者とされる他方配偶者に対して,何らかの職務上の法的義務を負担することは考え難いというべきである。」としている。同判決は、加害者とされる者についての権利利益性をまったく認めていないといえる。同判決は、「要領」が内部規範であり職務上の法的義務を負わせることを想定した内容でないとし、かつ、住民票の閲覧等請求権に対する判断と警察署長等の支援措置の意見が別個であることを、法的義務不存在の根拠としている。しかし、1審判決がはっきりと指摘しているように、警察署長等が支援措置の要件を充足する旨の意見を付することは,運用上の事実的効果として,住民票の閲覧等請求権の行使を困難 にするという不利益を生じさせる蓋然性が極めて高い行為である。加害者とされる者が自治体に対し住民票の閲覧等の請求を行った場合、担当者が要件充足性の判断を行うだろうか、誰が考えても様々な意味で不可能である。そうすると、警察署等の意見の時点ですでに、加害者とされる者は、子の住民票の閲覧等の請求権を実現するだけでも、少なくとも不服手続等が必要であり、多大な手続負担を強いられている。このような明らかに不利益を、内部規範の要領の問題として扱ってしまうことは、要するに、支援措置によって侵害される加害者の権利・利益を法的利益として保護するものではないということにほかならない。
 以上のとおりであるから、親が子の居所を把握する権利・利益は、我が国では認められているとはいえない。つまり、たとえ昨日まで子と一緒に暮らしていたとしても、ある日突然子の居所が不明になり、そのまま親が子の居所を知ることができなくなる、こんな惨いことが何らの手続保障もなく正当化されるのが我が国である。この信じられない実態は誇張でも何でもなく、現在の我が国の立法及び運用のありのままの姿なのである。子の居所を把握する立場すらも適正な手続なく侵害される国で親の養育権が保障されているとはいえないことは明白である。
 (6) 小括
 以上のとおり、現行法は親の養育権を保障せずこれを侵害する内容となっている。
 すなわち、民法818条3項の「父母の婚姻中は、」との規定は、まず、これ自体父母の一方の親権を認めず養育権を侵害する規定であり、同規定を放置することは立法不作為にあたる。また、親権を認めない親に対しても適切に養育権を認める規定及び運用が存在せず、むしろ、現行法及び運用は明らかに親子としての自然的権利である養育権をないがしろにしている。そのため、結局、民法818条3項の「父母の婚姻中は、」との規定及び同規定を前提とする養育権保障の規定を欠くことは、は養育権を侵害する立法不作為である。
 また、加えて、これまで述べたとおり、現行法は、父母の養育権を調整する仕組みや基準が完全に欠缺している。これも上記単独親権制の在り方に由来する。我が国の単独親権制は、親であることと父母の関係を結び付け、父母同氏が法律婚状態で意見が整う場合でない限り、片方の親の養育に対する決定権を否定する形をとっている。養育権の調整以前に養育権否定という形で解決するからこそ(不合理な解決であることは後述)、養育権調整の仕組みが欠缺していても一応成り立っているのである。そのため、たとえ形としては法律婚状態にあり親権を有していても、他方親に養育に関する決定権を否定され事実上関与を妨げられてしまうと、親の意思と手続保障によらず子と通常の親子関係にあること自体を奪われてしまう。親権者でありながら養育権を侵害される事態は、離婚のタイミング以上に何らの司法的判断を受けずに養育権を侵害されている点で、より深刻であるともいえる。そのため、民法818条3項の「父母の婚姻中は、」の規定及び養育権保障の立法の欠缺は、親権を有する者の養育権をも侵害することも起こる。

 4 民法818条第3項の「父母の婚姻中は、」の規定は、基本的人権又は人格的利益である親の養育権について、他方親と婚姻中の者と他方親と非婚の者(未婚、離婚、事実婚を含む)に不当な差別を与えるものであり憲法14条1項の「差別」にあたること


 (1) 区別の内容
 本訴訟で主張するのは、非婚の父母と婚姻中の父母の区別である。本訴状で述べる「非婚」は前述のとおり、法律婚状態にないことを指す。
 非婚の父母は父母の一方しか親権者となることができない(民法818条3項、同法819条。)。これに対して、婚姻中の父母は原則として父母双方が共同で親権者となり(民法818条3項)、父母の意に反して親権を喪失又は停止されるのは、親権喪失の審判(民法834条)・親権停止の審判(民法834条の2)の場合である。
 (2) 差別の存在
 上記区別は、憲法14条1項の「差別」である。非婚の父母はその養育の意思や能力などの個別的な特性にかかわらず、必ず、父母の一方は親権を奪われた状態である。これに対し、婚姻中の父母は、「虐待又は悪意の遺棄」等「親権の行使が著しく困難又は不適当」であるときだけ意思に反して親権を喪失する可能性があり、また、「親権の行使が困難又は不適当」なときだけ親権を一時的に停止される可能性がある。婚姻中の父母の親権は、極めて厳格な要件と手続保障に保護されている。加えて、同規定により親権を停止された親であっても、前述の代諾養子縁組の同意権を有する(民法797条2項)。以上は非婚の父母と婚姻中の父母の間の明白な差別である。なお、非婚の父母のうち親権を有する親も法的には差別されていることを付言する。非婚の親は、たとえ、自らが親権を有していても他方親との共同親権保有は選択の余地すらないのであり、また、親権者指定・親権者変更などの民法819条各号の手続きにより法律上は常に父母間で親権は択一的な緊張関係にあるといえるからである。
 次に、上記差別はいかなる権利・利益について差異を設けるものであるか。まず、上記差別は、非婚の父母と婚姻中の父母の間で、「親権」について差別するものであることは明らかである。本訴状では先に、親権の制約それ自体が基本的人権である養育権の侵害にあたるか否かという点について、両可能性を含めて論じているが、この点がいずれであっても、本項の平等権との関係では問題とならない。本項で主張する人権は平等権であり、差異を設けられている権利自体が必ずしも人権である必要はないから、親権という親子の基本的関係にかかわる重大な権利を区別している時点で憲法14条1項の「差別」である。また、前述の養育権についても、養育権自体が人権であるか否か、養育権の絶対的な侵害が存在するか否かは、本項の平等権の結論を左右しない。養育権という明らかに人格に関わる人権又は利益を、親権の区別という形で「差別」していることもまた明白である。
 以上の「差別」が憲法14条1項に違反違憲であることを以下述べる。

5 養育権の侵害は憲法13条に違反し、「差別」は憲法14条1項に違反するため、違憲であること。


 (1) ここまで、現行法が基本的人権である養育権を侵害するものであること及び現行法が親権又は養育権について非婚父母と婚姻中の父母を差別するものであることを述べた。以下、現行法の侵害規定が立法目的に合理的根拠を欠き、目的と侵害又は区別との合理的関係性がないことを述べる。養育権は親子の自然的関係と密接な人格的権利であり、また、上記区別も養育権に関する区別であるから、違憲審査基準はより厳格なものが採用されるべきであることを主張するが、上記基準においても違憲性が明確であるため、本訴状では上記基準にあてはめる形で主張を行う。
 (2) 現行法には、単独親権という形自体が存在し、かつ、単独親権制において養育権保障の不十分な前記立法内容を有している。これらの立法内容が養育権を制約する目的と親権又は養育権について非婚父母と婚姻中の父母を区別する目的は、父母の養育権の衝突による不利益を避けるためであると考えられる。この点については、他に目的が存在すれば、被告において主張されたい。
  この点まず養育権の衝突による不利益の主体が単に親の一方又は双方であれば、これによって子の利益でもある親子関係を侵害されるいわれはないから、目的として根拠を欠くことは明らかである。次に、養育権の衝突による子の利益を問題としているとすれば、まず、親子関係に直結する養育権の衝突を養育権の制約によって解決するということは背理であり、正当な目的ではない。また、父母間の養育権は、父母が別個の人格をもつ人間である以上、当然衝突する可能性のあるものであり、この意見対立は子の養育にとって利益であることもある。養育権の衝突自体を悪とする考えは誤りなのである。養育権の衝突は、消極的な意味においてはたとえば他方親や他方親の関係者による虐待を防ぐ場面で機能し、また、積極的な意味においても養育に関する積極方針が対立することでより互いの方針を吟味可能である。衝突による具体的な不利益を問題とするのであればともかく、衝突そのものを一方の養育権の制約という形で否定的に扱うことは目的の合理性を欠くものである。
 (3) 次の手段としても、非婚の父母の養育権を侵害し又はこれを区別することは合理的な関連性のない手段である。
 養育権の衝突は、婚姻中、婚姻外にかかわらず発生することであり、だからこそ、父母の婚姻中であるか否かに関わらず、養育権を適切に調整すべきことが要請されるのである。養育権調整の必要性を父母の婚姻関係に紐づける必要はまったくない。父母間で意見の対立があれば子の監護に関する事項について、司法による一定の介入を検討すべきであって、また、一方又は双方の養育権の行使に養育権の逸脱ともいえる問題があれば、この時に初めて養育権自体を制約すればよい。現行法にも親権喪失の審判(民法834条)・親権停止の審判(民法834条の2)が存在する。
 また、本件でいう非婚には事実婚も含まれる。そもそも、婚姻と親子関係を紐づけること自体、合理性を欠くことは前記のとおりであるが、たとえこの点を置くとしても、事実婚を婚姻の形として一定程度尊重していながら、養育権について侵害、差別することは整合性を欠く。
 別の観点から、法律婚を選択しない事実婚や非婚に関しては、夫婦別姓訴訟といわれる平成27年12月16日最高裁判所大法廷(平成26年(オ)第1023号)も参考になる。同判決は、氏の決定や変更は自らの意思のみで行うことは認められるものではないとの趣旨を述べながらも、「本件で問題となっているのは、婚姻という身分関係の変動を自らの意思で選択することに伴って夫婦の一方が氏を改めるという場面であって、自らの意思に関わりなく氏を改めることが強制されるというものではない。」として氏の変更が生ずる身分関係の変動自体は自らの意思で選択できるものであることに言及している。この論理は、法律婚の選択は自らの意思であることが前提となっている。しかし、法律婚でなければ一方の親が親権を得られない現行の単独親権制のもとで、本当に法律婚が自らの意思で選択できるだろうか。親子の地位と結びつけられていたら、親権者となるためにやむなく法律婚を選択せざるをえない者も当然生じる。法的な婚姻自体が自らの選択事項というのであれば、法的な婚姻と親権・養育権を結び付けることは不合理であることになる。
 さらに、相続分についての嫡出子と非嫡出子の区別が差別にあたるか否かが判断された平成25年9月4日大法廷決定(平成24年(ク)第984号,第985号)も「そして,法律婚という制度自体は我が国に定着しているとしても,上記のような認識の変化に伴い,上記制度の下で父母が婚姻関係になかったという,子にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由としてその子に不利益を及ぼすことは許されず,子を個人として尊重し,その権利を保障すべきであるという考えが確立されてきているものということができる。」としている。この考え方も本件との類似性が高い。上記判例では触れられいないが、そもそも父母にとっても法的な婚姻をするかどうかは一方の意思だけでは決められないものである。ましてや、子が父母の婚姻について、子が選択又は修正する余地のない事柄であることは判例のとおりである。そうであれば、単に父母が婚姻しているかどうかという子にとってまったく選択の余地のない事柄で、(具体的事情に基づかず)一律に親権・養育権を左右することは不合理である。
 最後に、手段が生む実際の効果として、親の一方の親権を制約することは、衝突の回避どころか、大きな衝突を生む側面があることは明白である。親同士は法律婚をしていない限り、常に親権の択一的な緊張関係を強いられるのである。非婚の父母や、離婚を希望する父母が、親権を奪い合うことが起こっていることは公知の事実である。前述の子の連れ去り問題は、極めて子にとって影響の大きい形での衝突のあらわれであるが、子の連れ去りは親権の奪い合いの代表的な形である。親の意見の衝突回避という目的に逆行する面を強く持つ手段をあえて選択する必要はなく、この点も手段の不合理性を明白にあらわしている。
 (4) 以上の通り、現行法である民法818条3項の「父母の婚姻中は、」の規定は、養育権・親権差別であり、また、同規定及びその他養育権保障の保障の規定がないことは、その立法内容が養育権の侵害にあたるところ、各侵害は、明らかに目的の合理性を欠き、かつ、目的との合理的関連性を有しない。したがって、これを是正しない立法府には立法の不作為が存在する。

 6 上記5の立法不作為は、国賠上違法であること


(1) 最高裁大法廷平成17年9月14日判決は,国会(国会議員)の立法不作為が国家賠償法上違法となる場合を2つ判示している。「国家賠償法1条1項は,国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が個別の国民に対して負担する職務上の法的義務に違背して当該国民に損害を加えたときに,国又は公共団体がこれを賠償する責任を負うことを規定するものである。したがって,国会議員の立法行為又は立法不作為が同項の適用上違法となるかどうかは,国会議員の立法過程における行動が個別の国民に対して負う職務上の法的義務に違背したかどうかの問題であって,当該立法の内容又は立法不作為の違憲性の問題とは区別されるべきであり,仮に当該立法の内容又は立法不作為が憲法の規定に違反するものであるとしても,そのゆえに国会議員の立法行為又は立法不作為が直ちに違法の評価を受けるものではない。しかしながら,立法の内容又は立法不作為が国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白な場合や,国民に憲法上保障されている権利行使の機会を確保するために所要の立法措置を執ることが必要不可欠であり,それが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってこれを怠る場合などには,例外的に,国会議員の立法行為又は立法不作為は,国家賠償法1条1項の規定の適用上,違法の評価を受けるものというべきである。最高裁昭和53年(オ)第1240号同60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁は,以上と異なる趣旨をいうものではない。」
 さらに,最高裁大法廷平成27年12月16日判決(平成25年(オ)第1079号,女性の再婚禁止期間違憲訴訟)は,国会(国会議員)の立法不作為が国家賠償法上違法となる場合について,以下のように判示している。 「法律の規定が憲法上保障され又は保障されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法措置を怠る場合などにおいては,国会議員の立法過程における行動が上記職務上の法的義務に違反したものとして,例外的に,その立法不作為は,国家賠償法1条1項の規定の適用上違法の評価を受けることがあるというべきである(最高裁昭和53年(オ)第1240号同60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁,最高裁平
成13年(行ツ)第82号,第83号,同年(行ヒ)第76号,第77号同17年9月14日大法廷判決・民集59巻7号2087頁参照)。」
 (2) 上記の点について検討すると、日本においては、先進国において極めて例外的に単独親権制が採用されていることに鑑みると、本来的に、単独親権制のもとにおいても父母の養育権が保障されるよう注意・見守りを行うべきであるといえる。これはあえて単独親権制を採用することに内在する見守り義務ともいえる。しかし、現行法の規定は、非親権者親の同意のない代諾養子縁組を認めているばかりでなく(このことの持つ意味は前述した)、父母間の養育権を調整する判断基準や仕組みを司法にあたえない立法内容になっている。父母間の養育権の統治システムが立法上ほとんど存在しないという異常な状態になっているのである。家族や子の問題は、種々の立場から種々のイデオロギーの問題と絡めて議論されがちであるが、そのような立場を超えて、父母間の養育権の調整システムが統治システムとして存在しなければならないことは、常識的な観点から当たり前のことである。また、養育権が何らかの理由で制約される場合、その要件と手続が明確になっていなければならないことも当然である。統治システムという観点でみると、養育権に関して、父母それぞれが子との関係で親子であり、いわばステークスホルダーであるが、これをたとえば企業統治に照らして考えると、その利益の調整の仕組みがないことは異常なことである。たとえば、会社法がなかったら、あるいは、会社法が1条だけであとは司法判断に委ねられていたら、とんでもない話である。また、人権制約の手続という観点から捉えると、たとえば、刑訴法が1条しかなかったら、ということになる。養育権調整の立法を欠くことは、イデオロギーの問題でも何でもなく、単に国のインフラを欠いている状態なのである。
 それにもかかわらず、これまで立法は判断基準も曖昧なまま司法に
個別案件の問題として司法に委ね、養育権の保障・調整の実施を放置
してきてしまった。たとえば、法務省の法制審議会では、平成6年に、
民法766条の関係で、離婚後における共同親権の制度(又は共同監
護の制度)を採用すべきかどうかについては、今後の検討課題とする、
とされている。また、平成23年の民法766条改正の際の、国会附
帯決議でも、「親権制度については、今日の家族を取り巻く状況、本法
施行後の状況等を踏まえ、協議離婚制度の在り方、親権の一部制限制
度の創設や懲戒権の在り方、離婚後の共同親権・共同監護の可能性を
含め、その在り方全般について検討すること。」とされている。このよ
うに、制度の在り方自体は、議論の大きなきっかけは過去にも存在し
た。結局、父母の養育権を対等に調整する立法はなされていない
。こ
のこと自体、法律の規定が憲法上保障され又は保障されている権利利
益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するも
のであることが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長
期にわたってその改廃等の立法措置を怠ってきたといえる。

 (3) 以上の養育権調整規定の不存在は信じられない異常事態であると考えるが、これが「法は家庭に入らず」という感覚からの不介入であるとする見方もあるかもしれない。
  しかし、父母の養育権の調整はそもそも子がどの家庭にどの程度属するかという面が強い。つまり、家庭内の問題ではなく、2つの家庭間の問題なのである。そのため、実は「家庭に入らず」という感覚はほとんど妥当しない。また、平成17年12月6日最高裁判所第二小法廷決定(平成16年(あ)第2199号)は、親権者である父が、別居中の妻が監護する子を連れ去ったという事案において、同父が未成年者略取の罪に問われた事案であるが、「親権者によるものであるとしても、正当なものということはできない。」「家族間における行為として社会通念上許容され得る枠内にとどまるものと評することもできない。」として、未成年者略取罪の成立を認めた原判断を維持した。同判例により、態様によって正当化される余地があるとはいえ、連れ去り後の子の連れ戻し行為について、大いに萎縮的な効果を与え、より連れ去り勝ちが強化されてしまった面があることは否定できないであろう。いずれにしても、国家は刑事処分をもってまで、部分的に親子に「介入」してしまったのである。この裁判例の時点で、国家は親子について強く手を出してしまったのであるから、その波及するところを考え根本的な養育権調整に至るべきであった。同判決では、滝井繁男裁判官が反対意見を出しており、そこでは、「確かに、このような場合家庭裁判所の手続によることなく、他の親権者の下で生活している子を連れ出すことは、監護に当たっている親権者の監護権を侵害するものとみることができる。しかしながら、その行為が家庭裁判所での解決を不可能若しくは困難にしたり、それを誤らせるようなものであればともかく、ある時期に、公の手続によって形成されたわけでもない一方の親権者の監護状態の下にいることを過大に評価し、それが侵害されたことを理由に、子の福祉の視点を抜きにして直ちに刑事法が介入すべきではないと考える。」「むしろ、このような場合、感情的に対立する子を奪われた側の親権者の告訴により直ちに刑事法が介入することは、本件でも見られたように子を連れ出そうとした親権者の拘束に発展することになる結果、他方の親権者は保全処分を得るなど本来の専門的機関である家庭裁判所の手続を踏むことなく、刑事事件を通して対立する親権者を排除することが可能であると考えるようになって、そのような方法を選択する風潮を生む危険性を否定することができない。」としており、子に大きな悪影響が及び可能性に言及していた。これは多数意見であるか否かにかかわらず、法やその解釈が行為規範になることを踏まえた、常識的な予測である。それにもかわらず、養育権を適正な手続で調整する立法を怠ってきたのである。
 (4) 前記のとおり、日本は、児童の権利に関する条約に、平成6年(1994年)に批准している。同条約第7条1項で「児童は、出生の後直ちに登録される。児童は、出生の時から氏名を有する権利及び国籍を取得する権利を有するものとし、また、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。」と規定され、同条約第9条1項に「締約国は、児童がその父母の意思に反してその父母から分離されないことを確保する。」とある。
 しかし、本訴状で丁寧に説明したように、現在日本において、児童の父母はその意思に関して、適正な手続もなく子と引き離され、子の養育を妨げられている。単純に言って、条約をまったく遵守していないのである。結果、平成31年(2019年)2月1日付で、児童の権利に関する条約の条約機関である子どもの権利委員会は、日本政府に対し、日本政府に対して、「子どもの最善の利益に合致する場合には(外国籍の親も含めて)子どもの共同監護権(shared custody of children)を認める目的で,離婚後の親子関係について定めた法律を改正するとともに、非同居親との個人的関係および直接の接触を維持する子どもの権利が恒常的に行使できることを確保すること。」を求める勧告を出した(同27条(b)。実際に日本は非同居親と子との関係を維持する立法をまったく怠っているから、勧告を受けたことは自然である。同勧告以前に、条約に批准しながら、長年何らの是正立法を行ってきたことは明白である。
(5) 政府は、平成2年の「1.57ショック」を契機に、消火問題を認識し、子供を生み育てやすい環境づくりに向けての対策の検討を始めたようである。平成6年には、「今後の子育て支援のための施策の基本的方向について」(エンゼルプラン)が策定され、平成11年には「重点的に推進すべき少子化対策の具体的な実施計画について」(新エンゼルプラン)が策定されている(甲18)。その施策の内容は、保育サービス等子育て支援サービスの充実、仕事と子育ての両立のための雇用環境の整備、働き方についての固定的な性別役割分業や職場優先の企業風土の是正などである。
 以上少子化対策にかかわる事項であり、少子化対策の是非等は本件とは関係がないが、遅くても平成2年以降、すでに日本では子の出生数や出生率の減少を防止し増加を目指すべきであるという基本的な考えが主流であったといえ、政府の方針であったことになる。
 ところで、子の出生率を上げるということは、子をもつという選択が増えるということである。人が子をもつという選択をするとき、何が重要であるか。それは、先進国においては当然のこと過ぎて意識すらしないかもしれないが、我が子が誕生すれば、我が子と親子として関わり養育することが保障されていることである。これが子を持つという選択を行うときのもっとも基本的な素地であることは疑いようがない。人が子をもつという選択をするのは、子の存在が喜びであることが大前提である。子育ては単にこなすべき事務ではなく、喜びなのである。仕事との両立やそのための保育環境などが子育てに重要であることは間違いないが、これらの施策は、子育てが人の喜びであることを大前提にそのサポートをするものである。
 しかし、我が国の養育権の実情は本訴状で述べたとおりであり、自らの意思又は適切な手続によらず、養育の喜びは奪われる。まさか我が国が養育すること自体の機会を合理的な理由なく奪われるような国であるとは思わないであろう。本件の原告らは日本の実態を知るまで、親子が親子として尊重されるものと信じて疑わなかった者たちである。本件原告らは子との関係を妨げられるまでそうであった。一方で、もしかすると、我が国では一種の誤解や諦めも蔓延しているのかもしれない。子が生まれても、子の他方の親と一緒にいなければ、子とはいられないのではないか、という。このような認識(誤解ではない)の下、すくなからず最初から諦めている者も多いだろう。
どちらにしても、子と一緒にいて子を養育できるということが、親になるというもっとも基本的な喜びである。これが確保されない国が子の親になることを推奨することは信じられないことである。子をもつことを支援する以前に、親子関係という基本的な土台を欠いている。このことは日本があえて批准している前記児童の権利に関する条約の内容やその履行状況に照らしても、容易に気が付くはずである。
 子の誕生について、これを推奨していく日本の方針が上記のとおり遅くとも平成2年には、基本的な素地として養育権の最低限の保障はシステムとして構築しておくべきであったことは明白である。
 (6) 以上の理由から、現行法の民法818条第3項の「父母の婚姻中は、」の規定を維持し他に養育権を保障する制度を用意しないことは、法律の規定が憲法上保障され又は保障されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白であるにもかかわらず,国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法措置を怠ったといえ、国家賠償法上違法である。

 7 権利侵害及び損害


 (1) 非親権者の原告について
原告らは全員子を養育する意思を有している。
原告・・・は、子らが未成年者のうちに離婚により親権を失い、そのまま子は成人してしまった。また、その他の原告らのうち原告・・・以外は、現在未成年の子がいるが、親権を有しない。
 原告らが親権を有しないのは、民法819条3項の「父母の婚姻中は」の規定による単独親権制のためであり、前述の違法な立法不作為による。前述のとおり、仮に親権が養育権そのものではないとしても、現行の制度では非親権者に養育権を保障する仕組みが存在しない。そのため、原告・・・を除く、その他原告らは、すべて、親権を奪われているという点において「差別」及び「養育権侵害を」受けている。
 (2) 原告全員について
  原告らは全員、親権の有無に関わらず本件立法不作為によって養育権の侵害を受けている。原告らは全員、子と一緒に生き、子を養育する意思を有しているが、原告らは、他方親の意向によりこれを阻害されている。また、原告らが司法に救済を求めても、原告らの中でもっとも面会の頻度が多く認められている原告・・・でも、「月2回程度2時間」の内容であり・・・、親子としての自然な養育関係にはほど遠い内容である。
  この実態は、親権の有無に限らず本件立法不作為により発生している。すなわち、現行の運用について前述したとおり、民法818条3項の「父母の婚姻中は、」の規定の存在及びその他非親権者の養育権保障規定により、非親権者である親は養育とは程遠いレベルでしか親子のかかわりを認められず、原告らはいずれも養育権侵害を受けている。
  さらに、前記のとおり、現行法は、父母の養育権を調整する仕組みや基準が完全に欠缺しており、これも上記単独親権制の在り方に由来する。我が国の単独親権制は、親であることと父母の関係を結び付け、父母同氏が法律婚状態で意見が整う場合でない限り、片方の親の養育に対する決定権を否定する形をとっている。養育権の調整以前に養育権否定という形で解決するからこそ(不合理な解決であることは後述)、養育権調整の仕組みが欠缺していても一応成り立っているのである。そのため、たとえ形としては法律婚状態にあり親権を有していても、他方親に養育に関する決定権を否定され事実上関与を妨げられてしまうと、親の意思と手続保障によらず子と通常の親子関係にあること自体を奪われてしまう。したがって、民法818条3項の「父母の婚姻中は、」の規定及び養育権保障の立法の欠缺は、親権を有する原告・・・を含む原告全員の養育権を侵害するものである。
 (3) 損害
 上記(1)、(2)のいずれの養育権侵害であっても、原告らの受けた精神的苦痛は、各100万円を下らない。
 原告らの中には、幼い子と突然会えなくなったまま子が成人し、今も子の行方が分からない者もいる・・・。また、裁判所、学校、警察関係で親としての扱いを受けず、深く傷ついたものもいる。そして、原告らは全員、親子として子と一緒に「いる」状態とはほど遠い状況に置かれている。原告らは人生で大事なものを奪われた生涯にわたる精神的苦痛を負っており。この苦痛は甚大で回復困難なものである。原告らの苦痛を慰謝するのには少額過ぎるが、すくなくとも、原告らの苦痛を慰謝する金額はそれぞれ100万円を下るものではない。

8 結論


 よって、原告らは,被告に対し,国家賠償法1条1項に基づき,それぞれ損害賠償金100万円及びこれに対する本訴状送達の日の翌日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金を支払うことを求める。
                                以上


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