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河童の町

 K県S市は河童の町であります。

 昔むかし「大政翼賛会」という機関がありました。それは神様を中心にすえた体制のもと、自由を抑圧するためにつくられた超国家主義的機関でありました。

 この機関のもとに、我が国は原論や出版や表現の自由を統制しましたが、そんな機関に反抗した一人の河童が、ここK県S市におられます。

 河童の職業はジャーナリストであり、河童が創刊した雑誌の名を『改造』といいます。『改造』には芥川龍之介や谷崎潤一郎、白樺派から小林秀雄に至るまでじつに多くの河童たちが寄稿いたしました。

 現代の河童かぶれであるわたくしは、本物の河童たちの意志が現在に持続するこのK県S市のM文学館を、先頃はじめて訪れました。

 ご覧ください!こちらは日本の河童が我が国へ招聘した、世界各国の河童たちであります。

 わたくしは様々なる意志が声として残るM文学館の展示を、ゆっくり眺めました。なかでもわたくしを驚かせたものは、芥川さんの原稿であります。

 こちらに展示されてあるものは「続・西方の人」のという晩年の作品の生原稿であります。芥川さんはこちらを脱稿した後に「唯ぼんやりした不安」というあの有名な言葉を残して自殺いたしました。つまりこちらに展示されてある「続・西方の人」は、芥川さんの遺稿であります。

 さらにこちらの文学館二階には、K県S市の出身である有島三兄弟(長男は「或る女」を書いた有島武郎であります)の作品(とくにここでは三男・里見惇の作品を中心にその周辺)が展示されてあります。このような白樺派的世界観は、ある意味われわれ河童とは真逆の俗っぽい世界観なのでありますが、しかしわたくしはここにも河童的なるものへ通ずる意志を感じました。

 こちらは一九二七年に撮影された見惇さんと芥川さんの2ショットであります。わたくしはこの写真に衝撃を受けました。あの自意識と美意識の過剰な芥川さんは、ぼろぼろの河童であります。それもそのはずで一九二七年とはつまり、芥川さんが自殺した年であります。ようするに、こちらの写真は自殺寸前の芥川さんの姿であり、わたくしの無意識は、この写真を見ておおよそはかりしれないショックを受けたようでした。

 その時であります!わたくしの横に芥川龍之介という人間が、時空を超えて並びました。えっ?いえいえ、もちろんわたくしはヒロポンなどやっておりません。わたくしは非常に「常識的な」人間(あるいは河童かぶれ)であります。そんなわたしの意識が身近に、あの芥川龍之介を捉えたのであります。

 わたくしは自宅に帰り「続西方の人」を読み直しました。羅生門然り地獄変然り、あの芸術的な、余りに芸術的な芥川龍之介はこの遺稿でイエスを書き、ヴォルテールとボードレールを引用しながら「思想」を書いております。

 漱石と鴎外に学んだ芸術家・芥川龍之介の自己形成の中心は、西洋の哲学と文学にありました。わたくしはあわてて後期・芥川龍之介を読み直しました。リルケ、ヴァレリー、ルソー、ニーチェ、ドストエフスキー、トルストイ等を引き、しかもその背後に西洋文明に深い痕跡をのこしたキリスト教と、古代ギリシャまで突き抜けた世界観を捉えている。漱石と鴎外はイギリスとドイツを躰で知りましたが、フランスやロシヤを丸善で知った晩年の芥川さんは、痛々しいまでに自己をさらけだしているではありませんか!クワッ!!

 そんな芥川さんの「思想」がもっとも色濃く濃縮された作品が、その名のとおり『河童』であります。これは寓話じゃありません。ね、芥川さん。失礼な!河童は本当におられます。そう言って眉をひそめる現代人の笑いや軽蔑といった態度はどこからくるのでありましょう?あぁ科学。ところがその科学とは、方法のことなのであります。われわれ河童は現象です。経験です。科学とは、現象を経験により位置づけする方法であります。現代人はこの方法の奴隷なのです。科学的な人間とは、すなわち経験よりも科学という方法に囚われた人間のことであります。人類はニュートン以来300年の科学的進歩によって、自己の経験を人類一般の経験に置き換えてまいりました。そしてそのような置き換えの方法を、世間では「常識」と呼ぶのです。ところでそのような常識とは、すなわち経験の合理主義化ではありませんか?

 ご覧ください!こちらが証拠であります。じつはM文学館の横に、S市の歴史資料館があるのです。こちらに展示されてありますのが「河童」でございます。人類はこの300年で、人間の経験を「科学」という小さな玩具箱の中に押し込みました。玩具は気晴らしを提供する為に考案された品物であります。人類は積木を手にして玩具を数学的に積み上げたからこそ、癌を治療して月に着陸し、河童という現象に対して「常識的」な意見を失ったのであります。

 現代人の思考を上から抑圧するあの科学的態度というものは、すなわち他者(科学者)の意見のことであります。人類はそのようにして、自己の経験を科学という小さな方法に狭めてまいりました。そしてそのような態度が普遍化された時、個人の態度は世間の態度となり、イデオロギーは戦争に発展いたします。いえいえ、少しも大げさなことではありません!自分でものを考えないとは、そういうことなのであります。経験とは、方法の外側にあるものなのです。そのような問題をひたすら「常識的」に検証した有名な河童はベルクソンであります。もちろんベルクソンの「常識」は科学を超越しております。科学が人間を外側から規定するなら、哲学(形而上学)は人間を内側から規定いたします。デカルト以来、様々な河童達は精神と物質の問題、すなわち心身二元論を最高難度の混沌の中で思索し続けてまいりました。ベルクソンは精神を脳に置き換え、分子の運動を数値化することを常識的に疑います。科学という玩具がなぜ発展したかというと、それが数学的に「証明可能な方法」だからであります。しかしパスカルのような河童は数学を極めた末にその方法を捨て去りました。それこそ無知を愛するという、あの哲学者たちの「常識的」な態度なのでありますよ。クワッ!

 ところで、芥川さんの話しであります。河童の話しであります。科学とは異なる常識的な学問に「民俗学」や「文化人類学」という方法もございます。河童とは何か?河童とは、近代合理主義国家の枠組みに組み込まれることを、自らの意志をもって積極的に否定した人間であります。そうして彼らは山や川に入りました。すると近代化以前には同じ共同体の人間であった彼らは、中央集権化と共に「河童」という記号で呼ばれるようになったのであります。

 その時、河童たちは何を想ったのでありましょう?西洋から流れ込んだ唯物論に人間を道具化するプラグマティズム、共同体の崩壊を感じ、河童たちは常識的に科学を捨てさりました。ミシェル・フーコーという河童は『監獄の誕生』という書で河童の正体を明かします。近代化と共に社会は標準的な人間だけが住む場所になりました。そして標準から外れた人間は「異常」という名で刑務所や精神病院に入れられたのであります。河童とは、中央集権型共同体から排除された人間であります。河童という記号を発明することによって、町は「正常」な人間が住む場所となりました。パノプテコン、あぁ余りにも、パノプテクォォォン!

 歴史とは人間のどこに顕れるのでしょう?頭蓋骨の奥に顕れるのであります。どうやら人間は眼の他に記憶により、自己を確認するようであります。人間は時に自己の経験を思い出し、民族全体の経験に思い至ります。歴史が過去の人間の行動を外部的に、物理的に、唯物的に学ぶだけだということなら、それは物知りになるためだけの歴史であります。記号表を暗記する歴史は記憶喪失者のための歴史であります。われわれの脳みそはそんな無駄をつめこむためにあるのではありません。ひとつの歴史を知るということは、死者(過去の人間)と交流することなのであります。わたくしはこの度、芥川さんと常識的に交流いたしました。

 「僕は超人(直訳すれば超河童です)だ」
 芸術は何者の支配をも受けない、芸術の為の芸術である、従って芸術家たるものは何より先に善悪を絶した超人でなければならぬと云うのです。
 芥川龍之介『河童』

 わたくしはこの一行に「唯ぼんやりした不安」を存知します。一九二〇年代に入って我が国にマルクス主義という科学が輸入され、芸術が「芸術の為の芸術」から「政治の為の芸術」になるにつれ、芥川さんの精神は晩年のニーチェに近付きました。河童的な、余りに河童的な!

 しかし芥川さんに悲劇はありません。真に悲劇的なのは現代人のほうなのです。それは皮肉なことであります。正常と異常のコペルニクス的転回であります。河童を失った河童の町、K県S市。いまやこの町は最高水準の科学「原子力発電所」によって、統治されているのであります!クワァァァ~ン


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