『タトゥーの女』

『タトゥーの女』

 長い方の針が10を、短い方の針が4を、もうすぐ指そうとしている。互いの針はこんなに離れているのと同時に、もうすぐ重なることのできる距離感にいる。そんな距離感に不慣れな僕は、本当はもどかしさなんか感じずに、脆くても折れず、ただ果敢に前だけを見て突き進む、秒針のようであってもいいと思うんだ。

 明朝4時前後、僕のわりかし好きな時間だ。人は眠り、自然も休む。SNSもない、メディアもない。ただ言葉と、音楽のある贅沢な空間。この贅沢な空間で、僕は僕を探し、自分を知り、野望を見つけ、時々誰かを頭によぎらせながら、何かに対抗しようと、言葉やら、音やらを使って、自由にアソブのだ。
 真冬の新聞配達員が、まるで僕の背中を押すかのように、強さを投函し、かすかな余裕も見せずに、自分の次の目的地へ、そそくさと向かっていった、気がした。

 なんてことのない夜なんてものの少なさにはもう慣れたつもりだった。何もせず眠ろうとした時も、少しだけ自分に満足した夜も、お酒を飲んで眠ろうとした時も、寂しがりや気質の夜が、次から次へと僕に不安を与え、僕を一人にさせてくれないのだ。だから僕は、一人で黙々と言葉を紡ぎ、音を編むこの時間に、特別な孤独を感じていた、気がした。

 しかし今日は何かがいつもと違う、気がして、Logic Proとやらから目を離し、Appleの純正EarPodsとやらを耳から外し、部屋の向こうを見ると、女、のようなものが立っている。いや、女である。女性というべきであろうか。しかしながら、女性という類に分類される方の女ではなく、女と呼ぶに相応しい方の女だったのである。一度女、のようなものに見えたのには少なからず理由がある、気がする。女というものは不確かである。多面的で美しい、着飾っているようで着飾っている。何も言わずに去っていく女もいれば、僕の脳裏や心に、積年の種を植えつける女もいる。男からすれば、少しだけ距離のあるもののように感じられるのである。

 部屋に見知らぬ女がいるとなれば、通常時は慌てふためくか、声を荒げるかまたは、恐怖に近い絶頂で、身体が硬直するような現象が想定されるのが妥当だが、自分はこれらのいずれかにも該当しなかったのである。僕はただ彼女を見ていた。じっと見つめていた。それは恐怖ではなく緊張でもなく、観察に近い感覚であった。足元から頭まで、じっくりと眺めていた。そんな僕の視線に気づいた彼女は、僕に動揺することもなく、こちらを少し横目に見てから、細く静かな指と指の間に煙草をつかみ、咥え、吸った。その様子はまるで見たいなら好きなだけ見ていればいい、と言わんばかりの態度で、落ち着いた自信と、どこか切なさの入り混じった、魅力的で動的で、静的な女であり、女性であったのである。長い方の針が6を、短い方の針が5を、もうすぐ指そうとしている。彼女の足は清廉潔白で、冬の川のように静かで細い身体を腰から上に沿わせている。髪は黒く長く、首とはだけた肩の間からは、雪の肌とは対照的な、タトゥーが顔をのぞかせている。こちらからでは何が描かれているか判別することはできないが、見えている部分はほんの一部分にすぎないだろう。彼女は相変わらずこちらには目もくれずに、煙草を吸っている。その外見と内見は、こちらをその気にさせているようでさせていた。女は僕の音楽と言葉の時間を、すべて自分のものにしてみせた。僕がこれほどにも愛し、贅沢にしている孤独の時間を、女は一瞬にして奪い去るのだ。しかし孤独のテリトリーに不法侵入してきた彼女は、ふてぶてしいその態度で、同時に僕の孤独を柔らかく包み込んだ。僕は彼女になら、この孤独を共有し、介入することを許してもいい、と思い始めていた途端、一旦煙草を吸い終わった彼女の首元のタトゥーが、次第に彼女の腕、指先をつたって足へと広がり、しまいには僕へ、僕の部屋全体へ伝播したのである。僕の孤独は、彼女の全身をつたってきたタトゥーに、まるっきし染められてしまったわけである。

 長い方の針が11を、短い方の針が5を、指そうとしている。僕と彼女は、互いの眼をじっくりと交わしたあとで、ゆっくりと性交をはじめた。

木檜旭


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