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誰かの人権を踏み台にしていく人達へ

先日、Xで国外トランス男性の形成後陰部の写真をある活動家が拡散した。そこには同僚に見せて笑っていたと書いていた。人権主張する側が他の人権を踏み躙る行為にショックを受けた。

つぶやきの範囲で書こうと思ったが、少し加筆する事にした。

形成手術を惨いと表現されていた。こんなことしても「女」なのは変わらないと書いていた。

それは、当事者である僕もよく理解している。手術をする当時も今もわかってる。こんな事してまで生きていく事になんの意味があるのか?と今でも思ってしまう。

性別適合手術は男になれない。そんな事はわかっている。でもそうしなければならない気持ちはわからないでしょう?
この気持ちがある事をそもそも「異常」だと思って生きている。多分、僕と同世代の性同一性障害の方はそんな学生時代を過ごしたはずだ。

現在、性別不合と呼ばれ、生き方だと誰かが発信していた。生き方と簡単に言われる事になぜだかわからないが怒りが込み上げた。苛立ちの原因もわからないまま、昨年、トランスジェンダー活動家の講演会に参加した時、これが代弁者なのかと、違いをはっきり突きつけられた瞬間だった。

苛立ちは自分とは違う人達だったという事でおさまり、僕は客観的に活動家の言動を見ることができていた。そして次第に見る事もなくなっていた。それが冒頭の写真を目にしてしまい遡ると、お互いの主張が過熱し、罵り合い、ひっそりと社会に溶け込んで生活している人の特徴を炙り出す様な発信をしている人達をみた。


見なきゃよかった。
そこに僕のリアルはないのだから。

僕は権利の主張はできるだけしたくない。何かができなくともできる事をしていけばいいと思っているから。だからせめて身体的な特徴を晒して嘲笑うような事だけはやめてほしい。それで生きてきた人もいる、そうしなければ生きれなかった人もいると言う事をどうか心の片隅にでも置いていて欲しいと、願ってる。



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