漢方医学の現代史

私は今年還暦を迎える。そろそろ、漢方の現代史について私が語るときが来たように思う。60歳、つまり還暦に達した人間は、自分が自ら関係したことについて、その範囲で歴史的事実を記し、後世に伝えるべきだと思う。



これから私が語るのは、現代、つまり1990年代後半から2024年3月までの話だ。特にそのなかで、私が実際関わり、関係者の一人であって、間接的文献に依らず私自身が体験したことを語る。無論これは、他の多くの人々が補い、修正して、より歴史的で正確な記述にする必要があるだろう。しかし私は今、その口火を切ろうというのである。



さて。私が東北大学大学院医学系研究科老年医学講座に1997年に入局した話は何回か述べた。私は「東北大学で初の漢方研究をテーマにした医学博士を取る」為に入局したが、当時私を理解してくれたのは佐々木英忠教授ただ一人だった。関沢助教授以下全員が「まず西洋医学で学位を取りなさい。その後は何を研究してもいいから」と言い、「いや、私は漢方の研究で学位を取るためにここに来たのです」という私は誰からも相手にされなくなった。



しかし佐々木教授のご高配により熊本大学で活性酸素の計測法を教わり、清肺湯の論文を書いて、私は遂に東北大学初の漢方をテーマにした医学博士となった。



数年後。私は佐々木教授と面談した。こちらで医学博士になりました。漢方外来をやっていますが、今後東北大で漢方の講座が出来る見通しはありますか?



佐々木教授は天井を向いてしまった。



そこで、私は東北大学を去ることにした。若干の流れは省略するが、結局私は東大に移った。当時丁宗鐵先生が東大で漢方講座をやっていた。丁宗鐵先生は当時、日本漢方界で有名なばかりでなく,韓国でも中国でもその名を知られる研究者だった。丁先生に電話で相談したら、「是非こちらに来たまえ」というので私は仙台を去り、東京に行った。



本質的ではないごちゃごちゃした話は省略する。ともかく私は東大に行った。本郷の医学部キャンパスに着いたが、何しろ広い。門衛に「丁先生の教室は何処ですか」と聞いたが門衛は分からなかった。あちこちに電話して、かなりたらい回しされたあげく、「何号館の3階です」と教えられた。何号館だったか、もう覚えていない。ともかくそこはレンガ造りの、おそらく戦前からあったのではないかと思われる古い建物だった。教室に電話して「教わった建物の入り口におります」と言ったら丁先生本人が出てきて私を案内してくれた。



その研究室には、窓がなかった。いや正確に言うと窓はあったのだが、完全に締め切られていて、その外をトタンが覆っていた。そしてその閉め切られた窓ガラスとトタンの間に鳩が巣を作っていた。一部屋しかないそのオフィスの窓際が丁先生の机だったから、彼が座る椅子の外側で鳩がくうくう鳴いていて、窓ガラスはハトの糞だらけだった。



その教室は、ツムラの寄付講座だった。正式名称を東京大学医学部生体防御機能医学講座(ツムラ)と言った。助教授が丁先生ともう一人いたが、教授は専任ではなかった。老年内科と物療内科が「親講座」になっていた。丁先生は老年内科から推薦されて助教授になっていた。しかし物療内科もスタッフを送り込んでいたのだ。物療内科から、助教授一人と助手が一人、その講座に送り込まれていた。その二人の名は忘れた。いずれにせよ、物療内科から送り込まれた助教授は、そもそもその教室に来なかった。彼は自分の助教授室を物療内科に持っていた。要するに、物療内科としてそろそろその人を助教授にする必要があったのだが、物療講座にはポストの空きがないので、ツムラの寄付講座にこれ幸いと助教授のポストを得て彼をそこに据えたと言うだけだった。



この東大にあったツムラの寄付講座について、あまり詳しいことを語ろうとは思わない。一つだけ述べるなら、そもそもその講座は漢方薬メーカーのツムラが資金を出した寄付講座で漢方について研究するべき講座の筈だったが、講座の名称が「生体防御機能医学講座」であった。この講座名からそれが漢方の講座だと分かる人はいない。しかしそれだからこそ、これがこの講座の名称となったのだ。



当時、企業が資金を出す「寄付講座」は産学連携の走りとしてトレンドだった。東大も金は欲しかったから、ツムラから毎年5千万出すという寄付講座を容認した。しかしその設立の過程で、さる「上の方」から「いやしくもこの東大で、漢方と名乗る講座というのはいかがなものか」という意見が出たのだそうだ。これは私が丁先生から直接聞いた話である。それで議論の末、ツムラの寄付講座は認めるが、「漢方を扱う講座であるとは絶対に分からない名前にしろ」という事になったそうだ。それで「東京大学医学部生体防御機能医学講座(ツムラ)」という珍妙な講座が出来た。



まあ、名前は珍妙だが、そこで私は2年間を過ごし、その間秋葉哲生先生の全面協力を得て、丁先生の指導の下、「八味地黄丸の認知症改善効果についての二重盲検ランダム化比較臨床試験(Iwasaki K et al. JAGS 2004)」を論文にした。しかしその東大の講座は結局の所うだつが上がらなかった。色々とドロドロした経緯の後、丁先生は東大を去った。さてどうしようと思った矢先、たまたま私が古巣である東北大老年科にご挨拶に行くと、佐々木先生が昼飯のラーメンを食っていた。そこで佐々木先生に「先生、どうですかそろそろ、東北大もツムラの寄付講座を作っては」と持ちかけたら、佐々木先生が食べかけのラーメンの箸を置いて「んだが。やるべ」と言ってツムラに電話し、なんだかんだあっという間に東北大学にツムラの寄付講座として漢方を研究する講座が出来たのだ。



その寄付講座は、今は無い。3年3期続いたが、その後その講座は総合診療部と一本化された。しかしその講座設立に伴って東北大学附属病院に設けられた「漢方内科」は今でも存続している。トップは高山真特命教授だ。私の教え子である。



だが私は最初に出来た「先進漢方治療医学講座」という名前について記しておきたい。「先進」は私が名付けた。これは漢方という伝統医学の講座であるが、先進的研究をするのだ、と言うことである。伝統が過去にしがみついて旧態依然としていたら、それはせいぜい博物館に陳列されるだけだ。漢方について先進的な研究をやるのだ、という意気込みを込めた。「漢方」というのは東大の苦い経験からこう名付けた。東北大学も国立大学だから、何かと先例、前例を重視する。それで最初大学事務方から「東大の先例から漢方という名は好ましくない」という意見が出た。そこで私はまさに机を叩いて熱論を振るったのだ。「あの東大の例は、まさに悪しき先例です。あれは漢方医学についての偏見からああなったのです。あれを真似してはダメです。この講座は、まさに漢方について研究するのです。断じて「漢方」を講座名に入れなければなりません」。かなりの気迫で述べたから、会議は一瞬静まりかえってしまった。ややあって議長の某教授が「そうですね。それはそうするべきでしょう」と言ってくれて、「漢方」という名前が入った。「治療医学」としたのは佐々木先生である。佐々木先生曰く、「これまで西洋医学は一生懸命病態解明や分子遺伝学を研究してきたが、なかなか治療が進まない。今ここに漢方の講座を始めるからには、ぜひ治療に結びつけたい」。佐々木先生のこの信念が加わり、講座名が「先進漢方治療医学講座」と決まった。


その講座から、抑肝散が認知症のBPSDに有効であること、半夏厚朴湯が誤嚥性肺炎を予防すること(Iwasaki K et al. JAGS 2007)、気滞スコア(Okitsu R. et. al Comrement. Ther. Med.2012) の開発など、数多くの研究成果が出た。又図らずも遭遇した東日本大震災の経験をきっかけに、漢方や鍼灸など伝統医学が災害医療に有用だという知見も発見し、広めることが出来た。さらに、災害後に起こるPTSDに対する柴胡桂枝乾姜湯の知見も発表した(Numata T et.al Evid Based Complementary Alternat Med 2014)。



さて、今回はここまでにする。この間、他でも色々な人々が日本の伝統医学を前に進めるため、未来に繋げるために努力した。それは、それぞれの当事者が語るべきであろう。この文章の最後に私が伝えたいのは以下のことだ。



漢方医学は日本が後世に伝えるべき、素晴らしい伝統医学である。

しかしその伝統を伝えるためには、守旧であってはならない。常に先進たるべし。

治療に力を注げ。漢方医学は、患者を治療出来てこそである。



この文章は、あくまで私が実際に関わったことのみについて語っている。後人がこれを補足し、訂正し、より全面的で正確な漢方現代史を書いてくれることを望む。



2024年3月4日

岩﨑鋼


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