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インターネット時代における価値観の均質化の弊害について

世界は分断されなかった方が良かったのかもしれない。

私はTwitterとかのSNSが登場した時に「これでもっと自分に興味関心があることだけみんな集中して、趣味は細分化して、コロニーみたいなものがたくさんできて…」と思っていました。

しかしどうやらやっぱりそうはならない様です。

思った以上に世間のみんなはそもそも「自分が」興味があることというものがあまりない様に思います。
「ほかの人が好きだから」自分も好き。

こういった事が多いような気がしています。

だからもっと細分化すると思っていた音楽のヒットチャートも昔よりも聞きやすくなっているはずなのに流行を追いかけます。
TikTokも好きな動画を見ればいいのに、みんなが観ているものを追いかけます。

昔は情報の流通速度が遅かったので、それでも色々と地域ごとの流行というモノがあったと思います。
青森では流行っているけど広島では流行っていない、そういったものですね。地方ローカルの番組とかも多かったので、ローカルタレントみたいな流行もあったでしょう。

それが、今や日本中(まぁ世界も)YouTubeを開けば同じものを見ることができます。
そして、日本中で同じ流行を追いかけます。地方で流行と言った概念が残っているのはネット文化に慣れて親しんでいない高齢者だけでしょう。

広がるはずのインターネットで、より世界は小さくなったみたいです。

そして、みんな共通の価値観は欲しいみたいです。

自分が好きではなく、他人が好きと言っているものを好きと言いたい風潮は顕著ですよね。
フォロワーが多い人にはフォロワーが付きますし、再生数が多い動画には再生数が集まります。
みんながいいねをしたものにはいいねをしたがります。
どうせいいねをするのであればいくら自分が好きではないとはいえ少しでも教官ができるものにいいねをしたいものだと思います。
そして、日本中から似た情報を集めます。自分が好きな、心地いい情報を集めます。
結果ツイッターのFFは偏ります。エコーチェンバーの巣窟の出来上がりです。

日本中から同じ画一化した価値観を持った人が集まり、承認の交換を行い続けます。

この画一化は少し昔のテレビの画一化とは全く異なります。
昔はテレビによっての情報の画一化と言っても、情報操作と言ってもある程度のブレーキ、良心の様なものは聞いていた様に思います

精々「発掘!あるある大事典」の翌日納豆が売り切れた程度の、まぁ、かわいい情報の画一化でしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/発掘!あるある大事典#:~:text=2007年(平成19年)1月7日放送「納豆ダイエット」の回では番組の反響が非常に大きく、全国のスーパーで納豆が売り切れたり品薄となり

例えば一日中安部元首相の事を、直接的に悪く言うテレビは無かったでしょう。
偏向報道がないとは言いません。でも安部元首相は死んでもいい、殺してもいい人間だという事を直接言うテレビ局は無かったと思います。

それがインターネットのエコーチェンバーの巣窟の中ではそれが起きてしまいます。

納豆ダイエットの放送をした翌日、本当にスーパーの棚から納豆が売り切れるんですよ?
それくらい人間ってバカなんだと思います(さらに納豆ダイエットは捏造情報をもとに番組を作っていたとのことなのでいよいよ救いようがないですよね)。

そんなバカな人間たちが一日中「安部元首相は悪だ」という世界観で生きていたらどうなるか、まぁわかりやすいですよね。

納豆ダイエットの事は2007年の事です。まぁまだiPhoneもなかった時代です。昔の事って笑う人がいるかも知れませんが、つい最近もコロナでトイレットペーパーが購入できなくなるという全く意味が分からない現象が起きましたよね?

YouTubeで自分で単語を検索して動画を見た人はどのくらいいるのでしょう?
YouTubeがこれおすすめです!って出してくるのは「みんなが観ている動画」です。

結局自分の好きなものもなく、みんなが好きと言っているものを見て、そして変な常識に凝り固まり、それが世界のすべてだと思い、結局変な方向に行ってしまうのであれば、インターネットも、考えることも、スマホも、全部なくして、全部AIに考えてもらった方がよっぽど健全なのかなぁと思います。

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