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真の多様性時代とは、多様性って言葉がもはや死語になった時代のこと

タイトルで「それな」となった方は、もうこの先読んでいただく必要のない話

論文調としての「外国人」はまだ使われるけど、会話における「外人」って言葉、聞かなくなりましたね。私が子供の頃、1990年代あたりは、親世代が「外人さんは~」とよく言っていました。

そういう環境で育った私は、まだ相手が外国人となると少なからず「意識」をしてしまいます。染みこんだ癖、というヤツですね。癖とはやっかいなものです。

一方、うちの小学生の子供たちはというと、国境のないコンテンツ群にまみれて生まれ育っているため、傍から見ていて、なんかもう「人種の区別」すらしていない感じです。「方言ってなに?英語と何が違うの?」ときたもんです。

テレビで男性とも女性ともつかない人を見ても特になんとも思ってないようですね。「男か女」かというのも、もはや我々旧世代の囚われなのかもしれません。そういえば80年代~90年代あたりまでは男とは女とは~みたいな歌謡曲がいっぱいありましたね。米津玄師の「アイネクライネ」のヒットあたりから、男性が女性の気持ちを代弁して歌うことに何の違和感もなくなりました。

「意識」の限界

意識するほどうまくいかないこと、って誰しも経験あると思います。

アレにはいろんな解明パターンがありますが、例えば私がいま研究しているMBTIでもそれは説明可能です。

利き手である主機能で振舞っているときは、ただ愉しんでいるだけで良い風が勝手に吹いてきます。なんせ赤ちゃんのときから使いこなしている利き手の機能ですから、無意識の境地、です。

「ワガママ」というとあまり良くない感じがしますが、ワガママとは「我が儘」。それすなわち「我、そこに在るが儘」。

ドラゴンボールでも意識的な強さの進化の果てに最後に辿り着いたのが「身勝手の極意」らしいですね(最近のはちゃんとは知らんのだけど)。個人的には「我が儘の極意」の方がしっくりきますが。

そしてなにより、こうやってジャンルを超えた知識を繋ぎ合わせて、「コレとコレって本質的に一緒じゃね?」って独りで愉しんでるのが、まさに私INTJの主機能であるNi(内向直観)ということです。

これに対してサブ機能以下は、年齢と共に育ち、意識的に使いこなせるようになっていく機能です。

私INTJであればサブ機能はTe(外向思考)、自分のアイデアを論理的に表現する機能(※ちなみに同じTeでも私でないタイプのTeは少し表現が違ったりしますよ)。何でも自分で決断したいINTJだけど、若い頃は決断をサポートするこのTeがまだ未成熟なので、Niで蓄積した頭の中の線と線がこんがらがって、自分が何をしたいのかよくわからなくなったりしていたものです。

不思議なことに、人間は主機能やサブ機能でうまくいかないと、劣等機能をいきなり発現してしまったりするようです。私の場合はSe(外向感覚)、いま起きていることや詳細を考慮に入れる機能。思い当たる節は人生で数えきれないですね。「現実、現実!」と意識すればするほど暴走して失敗します。

そうやって失敗を繰り返しながら成長していくというのもまた、大事なこと、愉しいこと、でもあります。

多様であることが無意識な時代に向けて、私は敢えて多様性を説く役目を担おう

自分の説く話が、10年後20年後には、恥ずかしくて読み返したくもない(「歌詞でポケベルとか言っちゃってたよ、恥ずかしっ」みたいな?)、そんな時代になっていてほしいからこそ、逆説的ですが、私はいまは敢えてこういう話を説いていくべきだろうと考えています。

コハクルのクル、時代に対してクルクルまわりつづけていくということは、そういうことでもあります。

最後に自分で読み返したら、タイトル以外で「多様性」という言葉に触れずに終わってしまいました。まあでもこれもきっと、そういうこと、なのでしょう笑

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