「沖縄のピカソ小波津有希」天国のお父さんが、応援団長🙏🏻

夫は、有希3歳の時に48歳で他界しました。生きたくても生きる事できませんでした。健康診断では、いつも異常なしで健康を維持していたお勤めが、平成9年5月頃、足のしびれと背中の痛みを訴える様になりました。
病院で診察レントゲンを取って診てもらいましたが、特に原因は、分からず、湿布剤を貰うだけでした。その痛みは和らぐどころか3ヶ月頃には、足のしびれは深刻になり一歩も歩けない状態になりました。
病院もその時になって何かがあると感じたのか。緊急に検査を受ける様に指示しました。そして数日後、検査結果は「悪性リンパ腫」「後3ヶ月生きられるかどうか....」言葉では言い表せないものは凄い衝撃が私を襲い、目の前が真っ暗になりました。痛みの原因が分からない不安から、突然現れたこの答えは、とても厳しくて到底受け入れる事が出来ませんでした。
有希のダウン症の診断を受けた時のショックを乗り越えたのは、夫が傍にいたからこそです。「共にこの子の人生を支えよう、障害を乗り越えよう」その支えあったからこそ頑張れました。
夫の病名告知を一人で受けました。夫には「悪性リンパ腫」とは告げる事が出来ませんでした。有希は、まだ1歳、座る事も、しやべる事も無理、どれだけ成長を望めるかさえ分からない。長男の辰弥6歳、長女の美樹5歳、絵美3歳。私は孤独でした。
夫は、幼い子供達の為に「生きたい」という強い思いから、放射線、抗がん剤の治療を、始めました。有希の体力、知力の為に行なっていた栄養補助食品のプロティーン、プルーンを夫の方から、積極的に取り入れて飲み始めました。その量は、何倍もの量になったけれども必死でした。本当だったら、車椅子でしか動けない体が、とても、しっかりと自分の足で歩ける程になり、1年後、奇跡的に退院し職場にも復帰しました。とても嬉しかったです。
役場勤めの夫は、誠実に仕事をこなし、責任を果たす事に集中していました。その職場復帰して1年後「再発」
告知を受けた時、苦しくて、悲しく二人で泣きました。
しかし、夫の強い要望で再度、過酷な治療開始しました。夫の母は、息子の病気の事を気に病み、体が急激に弱っていきました。そして、「急性白血病」を発症してしまいました。義父の顔には、落胆と寂しさが漂い、家族皆んなの心は沈んでいました。私は、こんな試練で立っていられるのが不思議なくらいでした。夫と義母には、病名を明かさない、希望を捨てない、悔いの残らない治療とどんなチャンスも逃がさないつもりでした。
夫は再発した時、ある覚悟が現実のものとなつていく事を感じていました。「生きられない,.,」闘病の中で、自分を責め、子供の顔も見れませんでした。愛していればこそ、傍にいたいからこそ申し訳ない、すまないと強く感じているようでした。
有希の小さいなキズ1つさえ、見つけ「気をつけなさい」と言いました。心配症で神経質な面があるので、将来の事を考えるだけで苦しんでいたのでしょう。そんなある日、突然「家を建てて欲しい」と言いました。それどころじゃなかったけれども、今、考えれば遺言の様なつもりだったのでしょう。子供達一人一人と接しはじめ、病室でいろんな話をしてしまいました。私と二人なると、家を建てるプラン、設計の事が中心でした。有希の事を考え、家の中は、明るく光が沢山入る様に「トップライト」にしてくれ、電気代も節約になるからと。だけど、私には、本当の理由を知っています。自分に後に残された妻、子供達の心が暗くならない様と...。それから、治療の抗がん剤を打ちキツイ時でも本人の強い希望で外泊、石川の海岸で子供達と釣りをしました。家族と過ごし、料理を子供達と一緒に作り、楽しい思い出を作りました。
入院中、夫のお世話になった友人の設計士に相談し、妹の婿に建築をお願いしました。夫は将来の事を話す事によっ

て希望を繋いでいたのでしょう。全てを語りつくしたか分かりませんが、発病から3年、「後3ヶ月の命」と宣告されながら共に頑張り通しましたが、力尽き48歳、天に帰りました。その半年後、義母も天に帰りました。
「天使くん応援団」有希6歳〜8歳の作品集で自費出版しました。有希の歩みです。
母智恵美🩷🙏🏻🎬🌈㊗️🎈❤️

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