「気づく」人と「ちゃんとやる」人が共存する必要性とその難しさ。

以下考えながら書いたから、書こうと思ったことから思わぬ結論に至ってしまった。一応最後は表題の結論に至るので、辛抱できる方は読んでみてほしい。

成果にフォーカスしているように見せていて(当人もそのつもりで)実際には異なることにフォーカスしてしまっていることはよくある。

その中でも「成果」にフォーカスしてるつもりなのに、実際には自分を肯定して「安心する」ことへフォーカスさせようとするバイアスに負けてしまうことは最もありがちなことだ。僕にとってもこのバイアスに抗うことが常にチャレンジだ。

自分を肯定することで「安心する」という目的を果たすために、成果を出すためには絶対に欠かせない「不確実性」から逃げようとする。

具体的には、最大公約数が肯定するであろう「道徳」「正義」「伝統」というような「確実なもの」をもって自分や他者の行動を評価しようとする。

こういう人たちは成果を出す手段として「ちゃんとやる」だったはずが、「ちゃんとやる」ことが成果につながるということを、どんな場合でも適用できる物理法則ぐらい確度の高い因果関係があるものとして信じ込んでしまう。

しかし現実には「ちゃんとやる」ことが成果を出す上でキーポイントになる場合と、むしろ「ちゃんとやる」ことにこだわると成果が出ない場合がある。

とくに比較的確実性が高い課題に向かう際には「エグゼキューション」が成否を分けるケースが多いので確かに「ちゃんとやる」かやらないかは確かに成果に大きな影響を及ぼすだろう。

しかし不確実性の高いテーマ、そもそも課題を解決する方法を探しているような段階においては「イノベーション」が成否を分ける。そしてドラッガーも書いているが「イノベーション」は多分に「知覚的」な分野であるから「気づく」か「気づかない」かが最も重要なファクターであり、そもそも一仮説に過ぎない施策の実行を「ちゃんとやる」ことに集中しすぎて、気づくべき変化や異常値を見逃すようなことは大いにある。

もちろんイノベーションの種に「気づき」、実際にそれを起こすためには「ちゃんとやる」ことは欠かせない。僕が言いたいのは「ちゃんとやってもしょうがないよ」ということでなく、目的はあくまで「成果」を出すことであり、「成果」を出すために、「ちゃんとやる」という道具が欠かせない場合と、別の道具が必要な場合があるのだということだ。

なので成果を生み出す組織をつくりたい経営者は「ちゃんとやる」が得意な人と、「気づく」のが得意な人がいい塩梅で組織の中に組み込まれることを目指すものだ。

理想を言えば「気づく」人で、かつ「ちゃんとやる」人がいれば最高なのだが、僕の経験から言えば必要な時にいつでも採用できるほどには存在していないから、「ちゃんとやる」けど「気づく」のが苦手な人と「気づく」けど「ちゃんとやる」のが苦手な人を一緒に仕事させて成果を生み出すことを目指すことになる。

そしてそのブレンドの適正割合は目指す成果によって異なるのだろうが、「気づく」けど「ちゃんとやる」のが苦手な人がマイノリティであるということは変わらないと思う。仕事量としては常に「ちゃんとやる」ための仕事が多くなるからだ。

なので経営者は「気づく」けれど「ちゃんとやる」のが苦手な人が組織内において「肯定」される状況をつくることに苦心する。無理ゲーじゃないかと思うくらい苦心する。

ただ企業が生み出す成果のうち最も難易度が高いのは「イノベーション」だ。そして生き残るために最も欠かせない成果も「イノベーション」である。「エグゼキューション」によって得られる成果はもちろん大きいが、「イノベーション」が先に起きなければほとんどの「エグゼキューション」は存在すらしないことを考えると「イノベーション」は尊いし、それを起こす起点になる「気づく」力のある人も欠かせない人材だ。

なので組織として「気づく」が得意な人に「気づく」に集中させ、「ちゃんとやる」のが得意な大多数の人にその状況を肯定的にとらえさせる必要がある。

「ちゃんとやる」も大事。だけど機能する組織であるためには多様性が欠かせない。そして往々にして「少数派」に対して寛容であることが要である。「ちゃんとやる」のが苦手だが「気づく」人への寛容さと、適切なマネジメント方法をなんとか組織内に取り入れなければ、死活問題だ。

僕らの会社においてまさに2016年の喫緊の課題であり、現時点では大きなウィークポイントがまさにここにある。ここの理解についてこれる人と、これない人で活躍の舞台を広げられる人と、そうでない人に分かれるだろうし、僕自身自分のものの見方に大きな調整をしなければならないと痛烈に反省した昨年でもあった。

僕の大好きな塩野七生さんが書いた「ローマ人の物語」の中で、ローマ帝国が成功したのは「寛容(クレメンティア)の帝国」だったからだという指摘がある。多様な人種、宗教的背景、どの時点で帝国の一部に加わったかなど様々な背景があってもそれが社会の中で障壁になることが少なく、寛容な社会があれほどの多くの成果を生み出したのだ。

そして「寛容」さと「成果」を両立させたものはおそらく「法」と「法の下での公平」さだったのだろう。「ローマ法」は近代法治国家に於ける「法律体系」の土台をなすほどに高度に発達していて細部にわたっていた。

僕らも「寛容」であることで「成果」を生み出すために経営者としてかなり厳密な「法」と「司法制度」を整備することが求められているのだと理解している。

一見相反するように見える「寛容」さを実現するための「法治の徹底」が2016年の経営者としての僕の第一のテーマにしたい。

それを僕らの会社の血肉とすることができれば「フィットする暮らしをつくる」ために必要な「イノベーション」を継続的に起こし続けられる組織になれるのではないかと期待している。

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