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理科教育学についての私見:拙稿の反省から

静岡県の片隅で
静岡市は静岡県中部に位置する政令指定都市で,日本で最も深い湾である駿河湾に面している。
気候はとても温暖で穏やかで,雪が殆ど降らず,一年を通して晴れ間が広がり,日本最高峰の富士山を眺めることができる。
筆者の所属する大学の研究室からも,年中富士山や駿河湾を眺めることができた。
研究に疲れた時には,夕方に研究室を飛び出して,駿河湾に沿う国道150号線を自転車で走り抜けた。
その最中,砂浜に転がる流木に腰を下ろし,富士山や駿河湾と自分自身を重ね合わせて,私自身の無知や思慮の浅さを嘆くこともあった。

思えばここ数年,私は幸運なことに自分自身を反省する機会が多くあった。
その反省を促したのは,富士山であり駿河湾であり,同期の院生や後輩,優秀な先輩研究者たちであった。
自然環境や他者からの刺激を多く受け,多くの人の助けを借りながら,何とか理科教育学研究に携わってきた。
私が自分の理科教育学研究の中で用いてきたのは,比較教育学的アプローチと歴史的アプローチである。
これらのアプローチは,現在の日本の理科教育を社会文化的に,歴史的に相対化し,反省するものであるともいえるかもしれない。
本稿では,「反省」を一つのキーワードに,理科教育学について考えてみたい。
具体的には,筆者が昨年に投稿した「理科教育学研究の方法についての一考察」と題するnote記事(以降,拙稿とする)を反省の題材としたい。
ご笑覧いただければ幸いである。

本稿の概要
本稿では,拙稿を反省することを通して,理科教育学の方法,ひいては理科教育学そのものについて考えてみたい。
その際、拙稿に対する有益なコメントを多く含むHarada(2019)も適宜参照する。

まず拙稿の反省点として,以下の3点を挙げる。
①拙稿では理科教育学の多様性にのみ言及していたが、それに併せて質の担保についても検討する必要があること。
②拙稿では理科教育学の量的研究法においてもその価値的な前提を自覚することを求めているが,その具体について示されていないこと。
③拙稿は,理科教育学の研究方法に関する記事であったが,研究方法に関する議論だけでなく,先行研究を参照しながら,理科教育事象や理科教育学がどのようなものかについての議論も展開していく必要があること。

最後に,今後理科教育学について反省的省察的であるために,理科教育学の比較対象を探し続けることが必要であることを述べる。
比較対象の具体としては,理科教育学そのものについてのこれまでの知見(歴史的な軸,タテの軸)と,他学問分野の知見(社会文化的な軸,ヨコの軸)を挙げる。

本稿に至る経緯
本題に入る前に,本稿に至る経緯について述べておきたい。
2019年11月9日に「理科教育学における研究方法論の再検討」と題するシンポジウム(以降,「シンポジウム」とする)が開催された。
拙稿は,この「シンポジウム」に触発されて執筆されたものであり,主として質的研究の視点から,理科教育学の研究方法について述べたものであった。
さらに,その拙稿に応答する形でHarada(2019)によって,「理科教育学における主要な論点に ”研究方法論” が仲間入りできそうな件について」と題する記事が投稿された。
Harada(2019)は,拙稿が引用した本を同じく引用しながら拙稿に批判的に応えるという何ともお洒落で,かつ,理路整然とした論考であった。
本稿をお読みいただく前に,あるいは,本稿を読まずに,Harada(2019)をお読みいただいた方が読者のためになるかもしれない。

本稿の目的
本稿では,このHarada(2019)の指摘を踏まえながら,拙稿について批判的に検討することを通して,理科教育学の方法,ひいては,理科教育学そのものについての私見を述べる。
筆者は,博士後期課程の大学院生であり,限られた経験と知識しか有していないが,自分自身の考えを整理する意味も込めて,思い切って理科教育学やその方法について書いてみたい。
なお,Harada(2019)による拙稿に対する指摘のすべてを本稿で取り扱うことはできなかった。

本稿の構成
本稿は,以下のように構成されている。
大筋では,拙稿の反省を行いながら,理科教育学についての私見を述べていく。
最後に,今後理科教育学について反省的省察的であるために求められることについて述べてみたい。

1.理科教育学研究の多様性と質の保証

では「反省」を始めてみる。
まず,拙稿の1つ目の反省点として,理科教育学研究の多様性と質の保証について述べたい。
拙稿では,現在の理科教育学研究において,「実証的,あるいは実践的アプローチにもとづく量的研究が多数派を占めており,規範的アプローチにもとづく質的研究があまり行われておらず,多様性に欠けること」を指摘した。
しかしながら,Harada(2019)も指摘するように,理科教育学研究の多様性を保証すると同時に,研究の質も保証しなければならない。
この点に関して,Harada(2019)は,以下のように述べている。

研究方法論の「多様性を認めること」の重要性を説くことが「何でもあり」であることを主張するものでないことは承知している。しかしその上でも,これから方法論を考える際,「何でもあり」というわけにはいかないことを前面に押し出して議論する必要があると考えている。

上記の引用でも述べられているように,研究の多様性を保証しつつ,個々の研究の質についても議論していかなければならない。
Harada(2019)が「前面に押し出して」と強調した背景には,理科教育学研究で用いられている量的研究手法に多くの誤用が見られることがあると推察される。

拙稿の契機であった「理科教育学における研究方法論の再検討」と題するシンポジウムなどにおいて,再現性を担保できるような研究のデザインが立案されていないことや正当な検定の手続きが取られていないこと等が度々指摘されている。
もちろん,その指摘は,研究者と教師の両方に当てはまるものであった。
とりわけ,現場の教師たちが統計に関する十分な知識をもっておらず,彼らの用いる研究方法は,彼らの実践の効果を示すことができていないことが指摘される。
このような指摘は,いわゆる「欠如モデル」に基づいているように思う。
12月19日に日本理科教育学会若手育成タスクフォースが主催となって開催されるオンラインセミナーも,知識の欠如する人(主に教師?)に対して,統計検定についての解説が行われるものである。
もちろん,このような取り組みや欠如モデルを否定するつもりは全くない。(筆者もこのセミナーに参加して勉強する。)
健全な科学としての理科教育学を目指すためには,このような取り組みも続けていかなければならない。

ここでは別のアプローチの可能性について私見を述べてみたい。
以前から,本当に教師たちは統計検定などの研究方法についての知識を有していないのだろうか,あるいは,そのような知識を有していても,教師たちは量的に子どもを評価することに拒否反応を示しているのか,であればそれなぜか・・・等々について疑問に感じてきた。
言い換えれば,(理科)教師たちの中に,自らの実践に関する研究方法をめぐって独自の文化が形成されているのではないか,だとしたら,その背景には何があるのかという疑問である。
統計検定に関するオンラインセミナーや研修等の取り組みに並行して,上記のような教師の文化について詳らかにすることも,研究者には求められるのではないだろうかと考える。
(前述した疑問は,(理科教育学の)教師教育研究において既に解決されているのかもしれない。)

2.理科教育学研究の価値的な前提

次に,2つ目の反省点として,理科教育学研究の価値的な前提について考えてみたい。
拙稿では,「実証的なアプローチでは価値的な前提があることを自覚することが求められること。」が指摘されている。
しかしながら,その価値的な前提とはどのようなものかについて言及されていない。
結論から言えば,理科教育学研究の価値的な前提は,潜在的にも顕在的にも多種多様にあるというのが私の考えである。
(この価値的な前提を詳らかにすることこそ,これからの理科教育学研究者に求められることの一つではないかと思う。)
ここでは,Osborne(2010),Nakamura(2020),Harada(2019)から,理科教育の価値的な前提の内容についてみてみたい。

Osborne(2010)は,科学教育の目的をめぐって,①科学の経済的価値,②科学の民主主義的価値,③科学の実用的価値,そして,④科学の文化的価値の4つの議論がみられることを論じている。
①科学の経済的価値とは,国家の国際競争力を高める将来の科学者や技術者等を育成するために科学を教授するという価値である。
②科学の民主主義的価値とは,社会問題の解決や意思決定を行うことのできる将来の一般市民を育成するために科学を教授するという価値である。
③科学の実用的価値とは,日常生活で役立つ科学的知識や思考力を身に付けさせるために科学を教授するという価値である。
④そして,科学の文化的価値とは,科学を人類の文化や教養とみなして受け継いでいくために科学を教授するという価値である。
以上の4つは,科学教育の目的の背後にある自然科学の教授価値の典型であるといえる。

Nakamura(2020)は,「Science Education Book Club in Japan」の中で,書籍"Values in Science Education: The Shifting Sands"のイントロダクションである「The Shifting Sands of Values in Science Education. An Introduction 」の内容について詳しく紹介している。
この記事では,科学教育の目的(価値)について詳細にわかりやすくまとめられているため,こちらをぜひ一度参照いただきたい。

他方で,Harada(2019)は,拙稿に対する指摘の中で,理科教育の価値的な前提について興味深い事例を挙げている。
具体的に,Harada(2019)は,実証的・経験的な研究方法を用いた理科教育学研究の論文のイントロダクションにおいて典型的に学習指導要領が含まれていることを示した上で,以下のように述べている。

もちろんこの書き方が悪いと言っているのではないし,筆者もこのスタイルで論文を書いたことがある。しかし理科教育学という学問の方法論を考えるためには一考する余地があると考えられる。
 すなわち,この例では「なぜ〇〇が重要なのか」という問題の根拠は「学習指導要領に書いてあるから」なのである。あえて書きかえるなら「(時の)御上がおっしゃるから」なのである。これは ”価値” の所在についての思考停止であるとも捉えられる。

上記では,理科教育学研究の中には,学習指導要領,すなわち,国家的なカリキュラムを根拠に,研究の意義を論じる研究が見られることを指摘している。
Harada(2019)も続けて述べているように,学習指導要領は法的拘束力を有するため,それを研究の意義に据える研究があっても何ら問題ではない。
しかしながら,学習指導要領を引用する研究者が学習指導要領に含まれている価値的な前提(理科教育において,いかなる変容が望ましいのか等)について自覚することが求められる。
加えて,理科教育学の研究者や理科教師にとって学習指導要領とはどのようなものかについて,理科教育学の研究者自らが検討する必要もあるのではないかと考えている。
(この検討は,将来的にやってみたいことの一つでもある。)

3(1).理科教育学の"方法"?

では,3つ目に,拙稿のテーマ自体を反省の対象としてみたい。
拙稿は,「理科教育学の方法に関する一考察」という題名であり,理科教育学の研究アプローチについて述べたものであった。
しかし,拙稿の執筆やこの一年間を経てみると,今後は,理科教育学の"方法"というよりも,理科教育学の目的や構造についての検討も求められるのではないかと感じる。
言うまでもなく,理科教育学の研究方法は,研究目的を達成するために選択されるものである。
そのため,研究方法に関する議論は,必然的に研究目的に関する議論を含むことになり,ひいては,理科教育事象をどのように捉えるのかという議論にまで遡る必要が出てくる。
すなわち,理科教育事象がどのようなものか,理科教育学とはどのような学問なのか,についての根本的な議論にまで遡り,それにしたがって研究目的や研究方法についての議論を展開する必要があるのではないだろうか。
事実,拙稿で引用した大髙(2017)は,理科教育事象を相互制約関係にある歴史的社会的な事象で,さらに,価値に規定される事象であると捉えた上で,研究のアプローチについて言及している。

以上から,理科教育学の方法についての議論だけでなく,理科教育事象をどのように捉えるのかに関する根本的な議論についても行っていく必要があると考える。

3(2).理科教育学そのものに関する議論

理科教育事象をどのように捉えるのか,また,理科教育学がどのような学問なのかについての根本的な議論は,もちろん,これまで理科教育学研究者の中で行われてきている。

管見の限りでも,拙稿で引用した大髙(2017)やその基礎となっていると思われる大髙(1990)はもちろんのこと,降旗(1979, 1990)や庭野(1993),堀(1994),八田(2004),磯﨑(2001, 2019)等,理科教育学そのものについての検討がなされてきた。
これらのうち,例えば,堀(1994)や八田(2004)は,理科教育学とはどのような学問か?という根底的な問いから出発して、理科教育学の方法についても考察している。
そのため,これらの知見は,現在の理科教育学の方法に関する議論に対しても有益な示唆を与えるであろうし,参照すべき論考であろう。
なお,庭野(1993)によれば,降旗(1979)が「理科教育学の学問体系樹立のための方向づけを行った最初の論文」(p. 93)であり,理科教育学そのものに関する議論は,1970年代まで遡ることができそうである。
小原(2017)によれば,教科教育研究は1950年代に結成された各教科教育学会のもとで本格的に始まり,その後,1970年前後に教科教育学が構想されたという。
この理科教育学会の発足期(1951年)や教科教育学の成立期(1970年前後)における理科教育学の学問体系に関わる議論は,現在の私たちに有益な示唆を与えてくれるに違いない。
(降旗(1979)は,後者の議論の中に位置付けることができそうである。)

以上より,理科教育学研究者の中には,自らの研究領域について反省的省察的な検討を加えてきた者もおり,理科教育学そのものについての知見は確かに存在している。
今後,それらの知見を慎重に吟味・参照しながら,理科教育学そのもの,または理科教育学の方法についての議論を展開していくことが必要だろう。

4.反省的省察的であるために

『教科教育研究ハンドブック―今日から役立つ研究手引き―』に含まれる「教科教育研究とその方法」の章の中で,佐藤(2017)は,教科教育の研究者の態度について,以下のように述べている。

新たな方法論・研究方法研究の展開のために,個々の研究者は,自らの研究目的を達成する方法論・研究方法を自覚して選択し,反省的省察的に遂行していかなければならない。(p. 44)

上記の引用では,教科教育の研究者は,自らの研究方法について自覚的,反省的,省察的であることが求められていることがわかる。
では,これを私(筆者自身)に当てはめたとき,理科教育学の研究方法について,さらには,理科教育学そのものについて,自覚的,反省的,省察的であるための「道具」を持ち合わせているだろうか。
佐藤(2017)の指摘をただの教訓やめあてではなく,より現実味を帯びたものとするためには,少なくとも筆者には,そのための「道具」が必要である。

現在のところ,筆者には,2つの「道具」が挙げられそうである。
1つは,3(2)で前述したが,これまでの理科教育学そのものに関する議論である。
すなわち,理科教育学そのものについて歴史的な軸で反省することができるだろう。

もう1つは,他学問分野の目的(論)や方法(論)である。
すなわち,理科教育学そのものについて,他学問分野の知見(社会文化的?な軸)で反省することができるだろう。
拙稿を含めて,(一連の)理科教育学研究の方法に関する議論の契機となったのは,「シンポジウム」であり,いわゆる「再現性の危機」に関する問題の提起であった。
そのため,心理学における「再現性の危機」やそれを受けた「シンポジウム」は,理科教育学やその方法について反省するための一つの「道具」であったといえる。
今後も,もちろん心理学だけでなく,他教科の教育研究領域(教科教育学の内部)と,自然科学,経済学,人類学などの多様な学問領域(教科教育学の外部)に積極的に赴き,それらに照らして,理科教育学について批判的に吟味することが求められるだろう。

最後に
平日の昼間に研究室を抜け出して鑑賞した,ある映画のワンシーンには,大学院生の私にとても突き刺さるものが潜んでいたり,いなかったりする。

「悔しいなぁ
 何か一つできるようになっても
 またすぐ目の前に分厚い壁があるんだ
 凄い人はもっとずっと先の所で戦っているのに
 俺はまだそこに行けない
 こんな所でつまずいているような俺は
 俺は・・・」
(竃門炭治郎,吾峠呼世晴(2017)『鬼滅の刃』「第8巻 上弦の力・柱の力」)

本稿では,未熟な大学院生の反省を書いてみたが,本稿の内容は,多くの読者には至極当然で,当たり前の内容であっただろうと思う。
冒頭で述べたように,私自身,反省することが癖になっており,今後も尽きることがなさそうである。
今後も,反省しながら,遅々とした歩みではあるが精進していきたい。

お願い
もし本稿に対して何かご指摘や質問などがあれば,ぜひお願いいたします。
そのご指摘や質問も,反省の「道具」として必ず活用され,今後の私の原動力になります。
どうぞよろしくお願い致します。

謝辞
拙稿に対して有益な指摘をくださったHaradaさんにこの場をお借りしてお礼申し上げます。
先輩研究者の暖かくも厳しい応答に対して,さらにそれに答えるのに1年の時間を要してしまいました。申し訳ありません。
「シンポジウム」を開催された研究者や先生方にもお礼申し上げます。
そもそも「シンポジウム」がなければ,私が学問としての理科教育学に対して,ここまで関心を持つこともなく,この記事が書かれることもありませんでした。

引用文献
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降旗勝信(1990)「2 理科教育学の立場」東洋・蛯谷米司・佐島群巳(編)『教科教育学の成立条件―人間形成に果たす教科の役割―』, 99-111, 東洋館出版社.
Harada, Y.(2019)「理科教育学における主要な論点に ”研究方法論” が仲間入りできそうな件について」Retrieved from https://note.com/yharada_scixpsy/n/n9c0402982c12
八田明夫(2004)「1-3 『学』としての理科教育:理科教育の研究法」八田明夫・丹沢哲郎・土田理・田口哲(著)『理科教育学―教師とこれから教師になる人のために―』, 東京教学社.
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磯﨑哲夫(2019)「理科カリキュラム内容構成論」『理科教育学研究』, 60(2), 267-278.
Nakamura, D.(2020)「移ろいゆく科学教育の価値観」Retrieved from https://note.com/rikaedu/n/ne739dab6fe69?magazine_key=m20ff68ba2652
庭野義英(1993)「理科教育の構造に関する研究」『教科教育学研究』, 11, 91-110.
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佐藤園(2017)「教科教育研究とその方法」日本教科教育学会(編)『教科教育研究ハンドブック―今日から役立つ研究手引き―』, 44-49, 教育出版株式会社.



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