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霧に溺れる(後編)

前編。

情報と霧と都市

霧に覆われるとき、ふと霧は「情報」のようにみえた。あくまでメタファーにすぎないがSNSは霧だと思った。

磯崎新は著書『空間へ』のなかで《見えない都市》について書いている。「都市も建築も、記号の「霧」のようになる」という彼の未来図だ。

都市空間は、シンボルが視覚化された記号の《濃度》の分布となりはじめる・・・都市空間はそれゆえに、一種の雰囲気そのものにも似た、非実体的な霧のようなものとしてイメージするのが適当である・・・《見えない都市》の内部では、建築も都市も融解して霧のようになっている。

この《都市》は、すでに人々の手の中にあると僕は考えている。Digitalな都市空間のことだ。

情報と霧と都市。情報は霧で、僕たちは霧の都市に暮らしている。

SNSという霧と「すきま」

SNSの本質は、やり取りされる情報そのものではなく、間を流れて人々のすきまを変質させる情報にある。

僕たちは毎日、膨大な情報を受け取り合う。そして受け取るのと同等かそれ以上に、周りを漂って通り過ぎていく情報を眺めている。

文学ばかりのタイムラインの中でたまに建築のツイートが流れる。友人が扱っていたある建築のテーマが登場する。突然にそのテーマを考え始める。少しだけ友人についても思索する。友人のことを以前より理解したような気になる。近くも感じる。しかし建築でタイムラインが溢れているときには、そのテーマが扱われていても気にも留まらない。友人を近くにも思わない。

二人にやりとりはない。すきまを漂う情報が、距離を錯覚させる。

"Site Misread"な彫刻

物質的な「霧の彫刻」は、心理的な距離を薄めて物質的な距離を剥き出しにする。輪郭を暈すのではなく、輪郭を凝視させる。

そこには剥き出しになる本質がある。存在していた関係性に対して新たな見方が提供される。

デジタルな霧はそこにあった輪郭を凝視させるのではなく、輪郭を縁取り「そうした関係性がそこにあった」と思い込ませる。つまり彫刻が先にありそれによって敷地が見出される。彫刻がなぞった場所に敷地の存在を錯覚するのだ。

思い込みと誤読による関係性の生成。その意味でSNSは"Site Misread"な彫刻なのだ。"Site Determined"ではない。

霧の縁取る境界の意味を読み間違えている。しかしその誤読だけが真実になる。

霧に溺れる心地よさ

霧に溺れることは心地よかった。僕たちは普段Site Misreadな彫刻に囲まれ、敷地を誤読して生きている。どこかに本質があるのか問うてもわからない。「霧の彫刻」は、体感として情報社会そのものに似ている。異なるのは、彫刻によって炙り出される本質があるということだ。情報社会にはそれがほとんどない。

霧に溺れることを心地よく思うのは、情報の霧に僕たちが普段から翻弄されているからだ。本質を見出だせることがたまらなく嬉しいのだ。周囲が見えなくもなぜか落ち着くのは、凝と見つめればそこに「本質」が存在すると知っているからだ。ほっとするのだ。

”Site Determined”な霧の彫刻

霧の彫刻の作者である中谷は、ビリー・クルーヴァ―との対話の中でこんな風に述べている。

私は、自然の中にあるものに対して、人々がもっと繊細になる手段を霧が与えてくれたら、と願っています。私は自然が自らその姿を現してほしいのです。

「霧の彫刻」は物質的な関係性に対するSite determinedな彫刻というだけではない。我々の情報社会に漂う「霧」に対する新たな見方を提示してもいる。すきまを凝とみつめなさい、ということだ。すきまを眺めてSite Misreadな関係に気付く。情報社会の本質を知る。僕たちはやっと、物質的な世界に邂逅することができる。

霧の彫刻はその性質すら、時代のなかでゆらめている。ゆらめき続けている。

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