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伝えるに足る表現行為

『誰にも見せないことを前提にはじめたブログを公開したら、「スキ」や「Like」の数が途端に気になるようになってしまった。』

という冒頭部分だけを記した下書きが、2年以上も一覧の下のほうで眠っていました。


一度、パンドラの箱を開けてしまったら戻れないんだ、とでも言いたげな含み。


表現行為には、大きく二種類の出発点があるのだと思います。

自分のために残すものと、他人に向けて綴るものと。

「伝わる」あるいは「伝えるに足る」表現とは、その両方をバランスよく備えているのだと思います。私的でありながら、オープン。温もりを保ちながら、冷静。

尖った表現物ほど、「ひととは違っている」ことを自覚しているもの。それでいて「伝える」ことさえできれば、きっと「伝わる」だろうことを確信している。

自身と他者との関係を見誤らない、距離的感覚に優れているのです。その上で、さらに斬り込むことを恐れない。

ひとの目や評価が気になって、文章が書きづらくなることも、そんなバランスを見つめ直すステージのひとつなのでしょう。試されているのは、人との関わりを失うことなく、己の感性を重んじる心を失わないことだからです。

そんな意識に触れながら、表現に勤しむ。

必要なのは忍耐と、洞察力と、そして勇気。

「人」との「間」にあって、自分で居続けることは難しい。だから、そんな危ういバランス感覚を無意識に、かつ力強く吐露する表現行為こそ、観客を得るに足るのでしょう。


たくさんの「人」を巻き込んで作る映像作品にも、そんなバランスが求められるものです。自分への慰めに作るものも、外向きであることで共感が宿る。

普通、作る過程もそうでなければ、結果が伴うことはありません。思い通りに意思疎通できなければ、鮮明に思い描く映像も、パフォーマンスも、音楽も、効果音も、フレームに残ることはありませんから。もちろん、例外がごまんとある話でもありますけれど。


そんなことを考える途上の自分を思い出しながら、いまもまったく同じ場所に立っている自分を顧みつつ、冒頭の一文を読み直すのでした。その続きで書きたかったことは忘れてしまったのですが、たぶん、いま書いていることと同じようなことだったのだろうと思います。

そこで、掲げられたハッシュタグのテーマには応えてみようと、このまま「下書き」を放り出すことにしたのでした。


私自身の活動がどれほどの人々に見られ、好まれているかなど、意識するほどの実数もありません。それでも、ことあるごとに数字へ目を向けてしまう悪癖とは、どうも縁を切ることは叶わなさそう。

でも「バランス」なんて、取る必要に迫られたときに考えればいい。

とにかく、表現しよう。という話なのでしょうね。


「下書きを公開しよう」とはそういう意味なのだ。

と、私は思うことにしたのでした。

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