【随想】癇癪とP.T.アンダーソン

うーん、これはまずいんじゃないかな。昨日から日記めいたものを書き始めてまた今日も書いている。二日連続で書いてしまっている。日記とはそういうものなんだろうけど、これはちょっと僕にしては張り切り過ぎている気がする。張り切りすぎたものが長続きしたりするものだろうか?(いや、するまい)
そもそもこれは日記なのだろうか(何しろ第三者に読まれることを想定して書いているのだ)。日記とは本来自己との逃げ場のない密室的対話、自己の深淵を覗き込み自己を問い自己に耽溺してゆくような危険な行為ではなかったか!自己を解体し、標本化し、自らを呪うための呪文ではなかったか!!それならばこんなのは生ぬるい言葉遊びだ!日記ではない!!ええい!こんなもの辞めてやる!!!

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癇癪。人はなぜ癇癪を起こすのだろう。
ポール・トーマス・アンダーソンの映画にはよく癇癪持ちの人物が出てくる。現実に起こされると甚だ迷惑な癇癪だが、彼の映画に出てくる人物の起こす癇癪には何故だかいつも愛着を覚える。もちろん癇癪にも色々あるのだが、彼の映画における癇癪はどこか破滅的な感じがする。身体をめい一杯に使って他者や物に対して攻撃するばかりでなく何よりも自分自身を痛めつけているような印象があるのだ。
これは自分にもよくあることなのだが、物事がうまく行かないとき、自分に対する怒りと他者に対する怒りがうまく区別できない時がある。一体誰に対して怒るべきなのかわからず、その矛先を丸っと自分自身に向けてしまってうっかり落ち込んでしまうことも多い。逆に、その怒りを丸っと他人にぶつけてしまう恥ずかしい大人もたまに見かける。
怒りを抱え込まず且つ他人にも理不尽にぶつけないというのはなかなか難しそうだ。芸術やスポーツで発散するというのは一つの方法かもしれないが、僕は正直なところポール・トーマス・アンダーソンの映画の人物のような破滅的な癇癪に少し憧れてしまう。身体をあんな風にめい一杯動かしてみたいような気になってしまう。あれを見ていると癇癪とは精神の問題ではなく身体の問題なのだろうと思う。血は燃えるように熱くなり、脳みそからは変な物質が分泌されているに違いない。
コントロールを失った身体はその人の人格よりもむしろ世界に属している。風に揺られる木々が木自身の運動より風の運動を表しているように。それがなんとなく美しいのだと思う。
今日観てきたポール・トーマス・アンダーソンの新作「ファントム・スレッド」には僕が期待したような癇癪持ちは出てこなかったけれど、全体としてとても抑制され洗練されていてこの上なく耽美な映画だった。とても静かでゆっくりとした癇癪だったと言っても良いかもしれない。
2018.6.3

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