【短編】おぼろげな記憶

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疲れている時は身体の感覚という感覚が鈍って却って疲れを感じないものだ。ただぼんやりした時間が続き、とにかく後になってからとやかくと思い出す。今日も家路をぼてぼてと歩いていると急に朝の出来事が思い出されるのであった。

朝眠いのは言うまでもないが、自宅の最寄り駅が始発駅なのを良いことに何も構いもせずに、私は座席の端にどかどかと腰を掛けて居眠りを始めた。ちょうどその辺りの記憶がおぼろげなのだが、確か私は缶コーヒーを持っていたはずである。電車を待つ間、駅の構内の自動販売機で買ったのだ。

ぼんやり歩いていると自動販売機が私の行く道を塞ぐように立っていた。自動販売機を前にすると、私はあまりよく考えずにボタンを押し、Suicaを押し当てた。するとガラコンという音を立てて冷たい缶コーヒーが出て来た。最近ではまったく手間なく物が買えるようになったものだが、あまりに簡単なものだから私はあまり物も考えないうちに缶コーヒーを手にしてしまったのだ。

缶コーヒーのひんやりとした硬さを手に感じると、その時私は初めて疑問に思った、果たして缶コーヒーが必要だったのかと。しかし買ったからには飲まずにおくのも勿体ないと思い、軽く缶を振ったあとプルタブを引き、缶に口を付けた。そして舌にまとわりつく砂糖の重みと鼻に抜ける鈍い珈琲の匂いを感じた時、私は改めて今この缶コーヒーを開ける必要がどこにあったのかと自問するのであった。

全く飲む気がなくなってしまったことは良いとして、問題は開けてしまった缶コーヒーをどうするかである。中身がまだ入った状態でゴミ箱に捨てるのも憚られるし、かと言って飲み干す気になど到底なれなかった。しかしとにかく私はぼんやりしていたので、当座その問題を保留してやってきた電車に乗り込むことにした。しかし、本当に問題なのはその先である。私はそれから持っていた珈琲をどうしたのであろうか?電車に乗り込み、空席を見つけると缶コーヒーのことなどすっかり忘れて座り込み、そのまま居眠りを決め込んでしまったのだ。


おぼろげな記憶がもう一つある。電車を降りる時のことだ。ふと目を覚ますと、一駅乗り過ごしていた。パッと目に入った電車のドアは開いたばかりだったのか閉じようとしていたのかわからないが、とにかく今にも動き出しそうに思えた。私はとにかく降りなければならないと思い、慌てて立ち上がりドアを目指した。ドアから飛び出すと、きまり悪くも電車のドアはそれから10秒もしてから落ち着いて閉じ始めた。その時のことだ。

私が慌てて座席を立ち、駆け出した時、左足の靴のかかとに何か当たりはしなかっただろうか?その時はなんとも思わなかったのだが、今になって急にあの時何か当たった感触がしたのではないかという気がしてくるのだ。或は全く気のせいだったのかもしれないが、それにしたって急にそんな気がしてくるのも妙である。そしてさらに悪いことに、その時私のかかとに当たったものはもしかしたら私が飲み残した缶コーヒーだったのではないかという気がしてきたのである。缶コーヒーを持ったまま眠るはずもないであろうから、きっと私は缶コーヒーを足元に置いたのだ。そしてそれと気がつかず、起き抜けに私はその缶コーヒーを不用意にも蹴り倒してしまったのだ。きっとそうに違いない。

そう思い当たると急に胸のあたりがざらざらとして来る。そして、もしかしたら隣に座っていた学生がバッグを床に置いていなかっただろうかとか、電車を降りた後ドアが閉じるまでの10秒、中の乗客が私のことを睨むようにして見ていたような気がしなかっただろうかなどと、あったようななかったような曖昧な感覚が次々と思い起こされるであった。電車を降りたとき、後ろからカコンと缶コーヒーが倒れる音が聞こえはしなかっただろうか?したような気もするし、しなかったような気もする。私が倒した缶コーヒーは色んな人の今日一日を少しだけ不幸にしたのではないだろうか。鞄に染みた缶コーヒーの甘ったるい匂いは一日続いたであろう。

しかし、それを帰りがけの今になって思い出して何になるだろう。そんなに小さな罪を悔いて何が変わるだろう。かと言って、それをまったく気にしないと決め込むだけの図々しさも持ち合わせておらず、ため息をついてみたけれど、まだ胸にざらざらが残ったままだった。

※本文は以上です。以下、あとがき。

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【短編】おぼろげな記憶

高山康平

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高山康平

eiga を撮ります。文章も書きます。現在は何者でもありません。ただの街の片隅に吹き溜まった風。もくじ https://note.mu/koheitakayama/n/nf9b06849314e
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