【随想】遠くのものには理知的に、近くのものには情動で

 たとえ思っていても言わなくて良いようなことなのだが、この文章は読者が少ないので思い切って書くのだが、西日本の豪雨の被害の様子をテレビやネットで見守っていた人たちの中にはそれに熱狂してしまっていた人が少なからずいたのではないかと思う。
 今日、街で若い青年が友達に「豪雨の被害が気になって夜更かしをしてしまった」と話しているのを聞いた。もちろん彼は心から心配していたのだろうし、ことによっては近親者が被災地にいたのかもしれない。しかし一方で、水が押し寄せて街を呑み、家々を壊す映像や写真に魅了されてしまってはいないだろうか。
 正直に言えば僕は、街が水に沈んだ光景をみてショックを受けると同時に「キレイだな」とも思ってしまった。
 報道によって被害の状況が認知され、救助に繋がったり支援を呼びかけることができるのは事実である。しかし、災害がある種のドラマとして消費されているのだとしたらそれは問題だ。
 テレビやネットが情報の主な収集源となって久しいが、そのような状態に慣れすぎた僕らは段々と現実に対して現実感を持てなくなってきている。以前、職場の後輩に知っている知識を教えたら、「まじっすか? ググろ」と言って目の前で検索をし始めた。現実で得た情報には本当らしさが感じられず、ネットこそがリアルとなっているという倒錯した状況を生きているのだ。しかし、ネット上には身体がない。全ての情報は記号化され凹凸のないスクリーンの上に質感を欠いたまま並べられることになる。僕らはそれらに対して一体どれほど実感を持つことができるだろうか。
 東京にいる僕らは西日本の被害に対してどれほどの実感を持つことができるのか。シリアや南スーダンでの紛争に対して。アフリカの貧しい子供たちに対して。陸で氷の到来を待つ痩せこけたホッキョクグマに対して。
 それらはどれも解決されるべき問題であるが、それは理知によってである。感情に流されてとった行動がどれほどの混乱を招くかということは災害が起こる度に問題となっている(不用意なボランテイア、不必要な物資、情報の埋没など)。
 また、それらの全てに心を消耗していては、疲弊して日常を生きることができない。テレビやネットの報道に心を痛めるのは人として当然かもしれないが、それが過剰になってしまうと自分の生までが実感を欠いたまま消費されていくことになってしまう。
 僕らは自分たちに実感できる範囲のところから生活を始め直す必要があるのではないだろうか。そうでなければネットは人々をただ不幸にするばかりのものになってしまう。人類はネットと共に生きていくしか選択肢がないのだ。それならば今一度自分たちの生に実感を取り戻すということが一方で行われる必要があるように思う。
2018.7.8

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