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受験の動機は、興味とコンプレックス。

現役不合格だった大学を、翌年もう一度受けた。試験会場は、現役時代に受験した東京の予備校の一室と同じだった。

実家の栃木県から東京まで片道約1時間半。朝7:00過ぎくらいから会場近くのミスタードーナッツで、最後の悪あがきをしていた。

英語と数学の2教科の筆記試験のみ。試験開始前まで、何回も解いただろう赤本を見直していた。

女性の店員が親切に、コーヒーのお替りをもってきてくれた。妙にそのサービスが嬉しくてほっとした。店内は、ぼくだけ。

試験開場時刻になったので、お店を出て会場に向かった。外で吐く息は白く、眠気は既に飛んでいた。

やるだけのことは、やった。2002年 2月終わりの出来事である。

学校を信用してなかった

高校内のテスト成績が良くて、やたら担任の先生に地元の国立大学の推薦受験を薦められた。でも、断った。

断った理由は、なんとなく薦められた大学で過ごしているじぶんをイメージできなかったのが大きいのと、やたらと薦めてくる担任に対して反発があったから。

「仮に推薦受験が通ったら、その大学行かないといけないんですよね?」「そうなりますね」「そしたら、ぼくが行きたいと思った大学に受かっても、行かなくちゃいけないんですよね?」「そうね・・・」

三者面談の時の会話だ。なんとなく、この会話の中に学校の都合が介在して、胡散臭かった。

生徒たちには、何がやりたいかを考えて、行きたい大学を選択しましょうって言ってた先生たちが、いざ発した言葉は違っていた。

浪人生をなるべく出さないように、学校のブランドや評価を気にしたり学校側の理由があったと思うが、最終的には、受験は生徒本人の問題だと思っていた。

受験失敗と浪人時代

結局、滑り止めの私立大学を受験しないで、他県立大学のA大学を受けて、見事落ちた。

滑り止めの私立大学の受験をしなかったのは、ぼくがあまり興味がなかったのと合わせて、父親が学費にお金がかかる私立に行かせたくなかったからだ。

父親も苦学生で、私立に行く余裕がなく国立一本だったのが理由らしく、それがぼくと4つ上の姉の受験にも受け継がれていた。

散々、先生たちに豪語してしまったじぶん。卒業式のクラス会で、親やクラスメイトがいる前で、これからどうしていくのか?を発表する場では、少し悔しかった。

クラスメイトのほとんどの子が、大学・専門学校・就職が決まっていて晴れ晴れとした状態なのに対して、受験に失敗したぼくは何て答えたらいいんだろう、と困った。少々拷問だった。

幸い、両親は失敗したぼくに対して、咎めることはなかった。

父親は笑いながら「お父さんも、お姉ちゃんも、一浪してるから、我が家は一浪する家系なんだよ、きっと」と、よくわからないことを言っていたが、そのことばが、ぼくの自尊心を守ってくれた。

予備校に通いはじめて、あらためて大学をどうしようか、何度も考えたが、結局同じ大学を受けることにした。ブレることはなかった。

唯一、現役と状況が違ったのは、滑り止めの私立大学を数校受けたぐらいだった。さすがに、2浪はできないと思ったし、父親も意地を張らず、私立受験を容認してくれた。

なんで、一度落ちた大学にこだわったのか。明確な夢や希望があって志望したわけではない。なんとなく、コンピュータに興味があったからだ。あと、ぼくのコンプレックスも理由にあった。

コンピュータに興味があった。

ぼくが通った高校にはWindow95を搭載したパソコンが置かれたコンピュータールームが1室あった。

当時の県内の高校の中では、最新設備で珍しかった。設備が充実していたが、在学中の生徒たちのコンピュータへの関心はそこまで高くなかった。携帯電話にみんな夢中だった。

ぼくは、最先端のテクノロジーだと思いこんでいたコンピュータ(パソコン)に魅かれて、その高校を推薦で入学することができた。

でも、高校に入って最初の壁にぶち当たった。

パソコンで結局何をするの?

せいぜいネットサーフィンをするぐらいしかなかった。むしろネットサーフィンに、はまっていた。

今では当たり前となった、CGやプログラミングということばは、じぶんの日常の会話に出てくることはほとんどなかった。

高校2年生ぐらいの時だっただろうか。あるWebサイトを見て、衝撃を受けた。新海誠の「ほしのこえ」だった。

「ほしのこえ」のサイトにあった動画から目に入ってくる、すごい綺麗な背景ビジュアルに魅せられた。

以前からよく見ていたセルアニメが3Dと綺麗なデジタル背景と融合されて、独特の世界観になって、じぶんを浸らせてくれた。

さらに驚いたのは、この動画は、当時新海氏が1人(音楽は除く)で作っていたことを知って、「まじかぁ、すげぇなぁ」と思った。

キャラクターは、ご自身で描かれていて、今みると垢抜けてない感があったが、当時はあまり気にならなかった。

隙はある作品だが、機材とやる気さえあれば、1人でこれだけの世界観とビジュアルを創りだせてしまうことに感心した。コンピュータを1人1台持てる時代がすでにきていた。

おそらくこの体験が、ぼくのコンピュータへの興味感心を掻き立てたのは、間違いないだろう。コンピュータの可能性を感じた。動機に繋がった。

コンピューターを使って、映像が作れる、表現ができることへの憧れ。CGクリエイターになりたい。

だから、大学もコンピュータのある大学に行こうと単純に思った。情報工学部や工学部にもコンピュータはあるとは思ったけど、何をしている学部かイメージが湧きづらかった。

コンピュータとわかりやすく学部名として出しているA大学は当時珍しかったし、直感でここにしようと思った。

入る前の段階では、本当にCGクリエイターになれる保証もなかったし、大学でどんな勉強するかも、あまり調べてなかった(入ってすぐ、後悔することにはなったが)

でも、受験勉強をする動機としては、十分だった。コンピュータということばだけで、勝手にじぶんの頭の中で妄想が膨らんで、受験に向けて、前に進めることができた。

当時は、今の時代と違って、情報がそんなになかったし、選択肢もたくさんあったわけではなかったので、変に迷わずに済んだ。

外国人恐怖症・英語がしゃべれない。

ぼくは、アメリカのロサンゼルスで生まれた。帰国子女だ。小学2年生後半に、神奈川県の緑区の学校に引っ越した。

ぼくの帰るべき場所は、当時日本だとずっと思いこんでいたから、ようやく日本に帰れることに安堵していた。

外国人恐怖症

安堵する理由の一つに、外国人が怖かったのがある。日本語学校に通っていたので、英語を話す機会があまりなかった。周りは、ほぼ日本人の子供。

英語の授業はあったが、外国人の先生の英語は、何を言っているのかわからなかった。背がでかくて、声も大きく、抑揚もあって、オーバーな表現(今思うとユーモアだったと思う)が多かった。

この先生は怒っているのか、褒めてくれてるのか、表情を見ても、いまいち感情が汲み取れなかったし、怖いと思った。

とにかく不安だった。近所の外国人の子供とも遊ばなかった。なるべく外に出ないようにしていた。なぜなら、知らない外国人に誘拐されるかもって危険意識が根付いていたからだ。

アメリカでたまたま、母親が姉を学校へ迎えにいく時に、1人で留守番することがあった(多分ぼくが外に出たくないと言って、駄々をこねたせいだろう)

突然、家のベルがなった。ぼくは、居留守を使って凌ごうとしたが、ベルが鳴り止まない。なぜなら、玄関のドアの窓から、ぼくの姿が丸見えだったからだ。

仕方なく観念して扉を開けると、背が高くて、太った、髭の生えた男性が立っていた。ぼくは、ビクビクしながら見上げて黙っていると、男性は何かボソボソと言いながら、手紙を差し出した。

なんか質問している感じだったので、適当に「イエス」と答えると、手紙をぼくに預けて、ニコッとしてその男性は去っていた。

ほっとした。何が起こったかわからなかった。とにかく、あの鳴り止まないベルの音が耳にこびりついていた。

その後、渡された手紙を見て、郵便屋のおじさんだということがわかった。今思うと笑い話だが、当時は誘拐されるかもという恐怖があった。

英語がしゃべれない

日本にきて、毎回困ることがあった。出身地はどこって言われることだ。毎回、長く生まれ育った栃木県と言うか、生まれ故郷のロサンゼルスと言うか迷うことがよくあった。

生まれ故郷を言うと、だいたいの人が、「英語ペラペラなんだぁ、すごいね」って言う。

ぼくは一言もペラペラなんて言ってないぞと思う。帰国子女というだけで、こういうレッテルの貼られ方をするのに違和感を感じていた。

ぼくは英語がしゃべれない。ぼくの姉は、ローカルスクールに通っていた時期があったから、英語や外国人に対しての抵抗があまりなかった。

むしろ、英語がしゃべれること、発音がネイティブに近い、それらを強みにして彼女がじぶんの進路を決めていたのが、10代の頃は羨ましかった。

外国人恐怖症、英語がしゃべれない、これらのコンプレックスを抱えながら、高校以降の進路を決める時に出会ったのが、A大学だった。

大学のカリキュラムや学校風景の写真を見ると、やたら外国人が多い。教員の約8割(たしか)が外国人。

数学や専門学科も英語で授業。教授陣はアメリカ、インド、中国、ロシアなど出身地はバラバラだった(授業を受けてみると、訛りが強くて、果たして英語なのか?とわからないことがよくあった)多国籍な環境。

そんな大学の環境を見て、ぼくの中から、コンプレックスが疼いた。一方で、このままでいいのかな、変わりたいなぁという前向きな気持ちがあった。

この大学に通えば、コンプレックスから解放されるかもと期待が高まった。どうなるかわからないけど、なんとかなると思った。

その環境にいるじぶんを想像してみることが何度かあった。これは行くしかない。

合格発表当日

2002年3月。合格発表の日。自宅のノートパソコンの前にいた。大学のWebサイトで、午前中、合格発表が掲載されるのを待った。

わざわざ大学まで足を運ぼうとは思わなかった。行って不合格だったら、ショックで帰ってこれないと思ったからだ。

合否結果の電報サービス依頼を出してたので、いずれはその日中に、栃木の自宅に届くのはわかっていた。でも、電報が届くよりも前に、結果を知りたかった。

合否結果が大学の掲示板に張り出されて、サイトがいつ更新されるかわからないけど、ずっとパソコンの前に張り付いて、時々更新ボタンを押してはページを確認していた。1階では、母親が洗濯物を干していた。

結果は、やってきた。母親を大声で呼んだ。「ちょっときてー!」

一緒に受験番号を確認した。「この番号あるよね?」「うん、あるある」「あるよね?」「あるって」

そんな会話を繰り返しながら、半信半疑で合格したことをじわじわ実感していた。数時間後、合否の電報が届いて、すぐに父親に電話した。

編集:円(えん)

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