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第5回 遠い声が、夜明けの歌を

  昨年末に読んで、たいへん感動した本です。「2021年のベスト1だ!」と、まわりに強く「推し」たほど。感想は著者に会ってから書きたいと思い、今年に入って連絡を取りました。

 奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を――文学を探しにロシアに行く』(イースト・プレス)

奈倉有里『夕暮れに夜明けの歌を』(イースト・プレス)

 ロシア詩、現代ロシア文学の研究者・翻訳家である著者が、20歳でロシアに留学した時の回想記です。

 茶目っ気もユーモアもたっぷりの、軽快でやわらかな文章に乗せられて、勇敢な女性の愉快な冒険譚のつもりで読み始めました。

 1982年東京生まれ。高校卒業後、単身ロシアに渡り、2002年冬からペテルブルグの語学学校でロシア語を学びます。2年後、モスクワに移り、モスクワ大学予備科を経て、2004年秋、ロシア国立ゴーリキー文学大学に入学します。2008年に日本人として初めて卒業し、「文学従事者」という学士資格を取得。東京大学大学院修士課程を経て、博士課程満期退学。博士(文学)——というロシア文学者。

 ゴーリキー文学大学は、全学年を合わせても学生数が約250名という小規模大学ですが、ロシアでは知らない人のいない特殊な大学です。帝政ロシア時代から、作家や詩人が社会思想を形成する核を担ってきた国だけに、ロシア革命後、作家を人々の思想の根本を作り上げる職業として重視したソ連政府によって1933年に創設されました。

 文学科、批評科、翻訳科の3つがあり、著者は翻訳科に進みます。

 日本人にはまったく馴染みのない大学だけに、いったいどんなところで、どんな勉強をしてきたのか、という興味で手にした本ですが、ありがちな留学記などではなく、ロシア文学の懐(ふところ)にそのまま飛び込み、我を忘れるほどに没入し、そこで出会った本質的な体験を、しっかり受け止めてきた旅の記録——それを追体験させてくれる回想録——だと、徐々に感じ始めます。

ミハイル・シーシキン『手紙』(奈倉有里訳、新潮クレスト・ブックス)*1

 お母さんが語学学習好きでした。趣味としてドイツ語、スペイン語をやっていて、後から始めたスペイン語学習では、単語を覚えるために家じゅうの家具や冷蔵庫、洗濯機、電子レンジに油性のマジックで遠慮なしに単語を書きつける!

 それを見ながら育った著者は、高校1年の秋に「なにか英語以外の言語がやりたい(好きだったトルストイを原文で読みたい)」と思い、母のスペイン語の上にロシア語単語(文字が秘密の暗号みたいでわくわくする!)を書き、さらに家じゅうのモノというモノに、単語を書いた紙を貼ります。そして、NHKラジオ「ロシア語講座」を聞きながら、どっぷりロシア語の海につかります。

 やがて不思議な感覚が、著者を襲います。「思いもよらない恍惚とした感覚」にぼうっとなった、と記しています。

<なにが起こったのかと当時の私に訊いても、おそらくまともには答えられなかっただろう。そのくらい未知の体験だった――「私」という存在が感じられないくらいに薄れて、自分自身という殻から解放されて楽になるような気がして、その不可思議な多幸感に身を委ねるとますます「私」は真っ白になっていき、その空白にはやく新しい言葉を流し入れたくて心がおどる。ごく幼いころに浮き輪につかまって海に入ったときのような心もとなさを覚えながら、思う――「私」という存在がもう一度生まれていくみたいだ。>

 語学の勉強で、ついぞこういう感覚を味わったことがないだけに、この箇所がとても気に入りました。語学のエキスパートが味わう独特の感覚。その後も幾度か、著者はそんな体験を重ねます。

<気づけば、進路というものが自分にあるのならロシア語しかない、と気負うようになっていた。思春期の気負いというのは不思議なもので、いちかばちか、どんな荒唐無稽な夢にでも向かっていける気がする。そのころの自分にとっては、選んだ道で「本気を出せるか否か」というのがいちばん大事な基準だった。加えていうなら、逃げ場がないような崖っぷち、という場所を探してもいた。>

 こうして、著者は20歳になろうという冬に、ペテルブルグの語学学校に留学します。

リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』(奈倉有里訳、新潮クレスト・ブックス)*2


 マイナス26度のペテルブルグ空港に着くまでのハラハラ、ドキドキ。語学学校の寮で同室になった世話好きのユーリャ、進路を示唆くれたエレーナ先生、一つ一つの挿話がキラキラしています。

 そしてモスクワに移り、モスクワ大学予備科に通いながら、文学大学の入学試験をめざします。時は2004年。引っ越して間もない2月に、地下鉄テロ事件が発生します。朝のラッシュ時に起きた自爆テロで、40名以上が死亡し、250名以上が負傷する事件です。第2次チェチェン戦争(1999~2009)の余波で、社会情勢は騒然とし、「モスクワ生活の幕開けは、とにかく暗澹としていた」と綴ります。

 快活な冒険譚だけではおさまらない、外部世界での出来事や、重苦しいロシアの現実が、いやがうえにも著者の中に流れ込みます。

 2004年9月1日には、ベスラン学校占拠事件が勃発。児童や保護者など1181名を人質にして立てこもった武装集団と、ロシアの特殊部隊との銃撃戦になり、児童186名、保護者111名を含む350名あまりが死亡し、730名以上が負傷するという惨劇が起こります。

 寮で同室となったドイツからの留学生インガ(元々はカザフスタン生まれのドイツ系移民の子)の告白や、宿泊所で接したサーカス団の少年たち――とりわけ、ある日突然姿を消したサーシャ――のことなどが、そのまま著者の内面に影を落とします。

 どの描写にも圧倒的なリアリティーがあります。外の世界を無防備なまでに感受する力は、同化力、共感力といってもいいのですが、もっと「言葉」になる以前の心の器に、そのまま受容しているイメージです。「無防備」といったのはそういう意味で、「私」にとらわれない著者の個性をむしろそこに感じます。

 文学大学4年間では、さらに決定的な「変化」が著者の内面に生じます。さまざまな出会いや出来事がありますが、何といっても「酔いどれ先生」アレクセイ・アントーノフ先生との出会いです。

 「文学研究入門」を講じる先生は、ちょっとした有名人というか、人気者。理由は「飲んだくれ」のせいでも、先生が独身で学生寮に住んでいるからでもなく、「教壇に立ったとたんに顔が変わり、別人になる」――からでした。

 教科書をいっさい使わず、余計な雑談などもせず、手振り身振りをまじえ、怒涛のように重要なことだけをまくしたてていく授業。毎回さまざまな作品が引用されますが、シェイクスピアの台詞は登場人物になりきって暗誦し、詩の朗読では揚々として言葉に熱がこもります。

<授業のはじまりはいつも、まるで劇場の幕があがる瞬間だった。魅了される観客と化した学生は、息を呑んで前を見つめる>

 著者は、そこで決意します。「絶対に聞き逃したくない。ひとことも」「とにかく聞き漏らしたくない」と。


 さっそく自己流の速記を試みます。最前列にすわり、「全身を耳にして」言葉を聴き取り、授業が終わるとすぐにそのメモをもとに、講義ノートの清書に取りかかります。

<覚えている。単語の最初の三文字からでも、先生の声がよみがえる。聴こえる!
 この喜びが私をやみつきにした。(略)驚いたことに、いちど清書してしまうとそのノートからは、いつひらいても先生の声がした。声質を覚えているとか、イントネーションがわかるとか、そんなものではない。引用した台詞のどこに熱を込めて語ったかも、話の途中でとられた間合いも、言い淀んだ箇所も、ちょっと笑ったところも、すべてがそのまま再生されるのである。幻聴じゃないかと思うほどはっきりと。そうして私は、清書した講義ノートをひらくだけで何度でも繰り返し授業を受けられるのだった。>

 感激がいかに大きかったかが伝わります。喜びを、こう再現すること自体に著者の個性、受容する人としてのすぐれた才質を感じます。

サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』(奈倉有里訳、集英社)*3


 「学ぶ」「影響を受ける」「魅了される」とは、こういうことだと思います。2年生になっても、もう一度同じ授業にもぐりこみます。3年生になると、4年生向けの先生の講義「20世紀ロシア文芸批評史」を聴講します。

 ロシア革命前からソ連崩壊後までの文芸批評の歴史です。検閲、戦争、言論統制・弾圧……「楽しいことばかりじゃない、むしろ嫌なことも多いのが批評史です」と、先生は言います。

 そこで初めて、アントーノフ先生の生い立ちも知ります。1955年生まれ。クリミアのセヴァストーポリ出身である――と。

 あいかわらず教科書はなく、すごい情報量が詰め込まれた授業。先生に教えられた歴史図書館に通いつめ、必死で授業を追いかけます。批評史でも、いつも詩が朗誦されました。

<その日に聴いた詩を味わいながら坂をのぼり、歴史図書館に向かう。寮に帰るともういちど清書したノートを開き、ノートから威勢よく聴こえてくる声に耳を傾ける。こんな日々がずっと続けばいいのに――幸せな日々の連続に、私はそう思うようになっていた。私はいまでも、もし一瞬だけ過去のどこかに戻れるとしたら、あのとき歴史図書館に向かっていた坂道に戻りたい。>

 たった一人の日本からの留学生。ただでさえ好奇の目で見られたことと思いますが、いきなり知らない学生から、「勉強しかしない日本人の子がいるって聞いたけど、君のこと?」と言われたことも。

 ところが、最終学年に向けて卒業論文のテーマを用意していた時に、思いがけない事件が起こります。アントーノフ先生の授業をもとにしたテーマを考えたところ、それが「政治的だ」という理由で、学部長に却下されるのです。

 「青天の霹靂」の決定。理不尽な横やり。著者の憤り、無念さは想像できます。

 やむなく卒論は別テーマに切り替えて、一方で批評史のテーマはそのままに、「ちょっと力の入ったレポート」を、アントーノフ先生に書いて出します。そして、日本の大学院に進むことを決め、卒業と同時にモスクワを去ります。

 東京に帰ってきてからも、アントーノフ先生の講義ノートはあいかわらずの「宝物」でした。何かの発表の前には必ずノートをひらき、聴こえてくる先生の声に耳を傾けます。「そうすると、なにをどうまとめたらいいのか、なにがいちばん重要なのか、どう話したらいいのかが、いつもすんなりとわかる」のでした。

 ところが、しばらく後、調査でモスクワを訪れた著者は、アントーノフ先生の芳しくない噂を聞きます。歴史図書館で姿を見かけると、「一気に白髪になって歩き方さえ頼りなく、一年生のころは三〇代にも見えたあの元気な」面影が一切なく、声をかける勇気が出なかった、というのです。

 そして数年後——。

<東京で久しぶりに先生の講義ノートをひらいた私は、大袈裟ではなく血の気が引くのを感じた。聴こえない。あれほどはっきりと聴こえ続けていた先生の声が、ぱたりと止んでいる。文字はある。意味もわかる。内容はちゃんと理解できる。でも声が聴こえないのである。>

 2018年春、モスクワを再訪しますが、結局、先生とは会えずじまい。帰国後、しばらくして開いた大学のホームページで、先生の訃報に接します。2018年5月19日没。

  実は、この文章の始めに書いたように、著者、奈倉有里さんとは3月にお会いする予定でした。いくつかのことを確かめた上で、この文章を書こうと思っていました。しかし、2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻で、この予定は吹き飛びました。

 ここまで縷々(るる)紹介してきた著者ですから、いまどういう心境か、想像にするにあまりあります。

 奈倉さんは現代ロシアを代表する作家ドミートリー・ブィコフミハイル・シーシキンらの発言、文章を緊急翻訳し、またこの著書のなかでウクライナに言及している27章「言葉と断絶」、29章「灰色にもさまざまな色がある」を全文無料公開しています。

<卒業してから先生が亡くなるまでのあいだ大学でなにが起きていたかを、私は詳しく知らない。でもその時代になにが起きていたかならわかる。ロシアとウクライナと、クリミアに、先生の故郷セヴァストーポリに、なにが起きていたのかなら。私は、自分のことのように追っていたから。>

<それぞれの時代の優位的な思想に常に疑問を投げ続ける先生の発言は、ときにはきちんとみんなに伝わらない、理解されないことがあった。急激に閉塞感が増していた時代の空気を、先生は確かに感じとっていた。>

 果たせなかった卒業論文の代わりに提出したレポートを、アントーノフ先生がどう読んだか、どう反応したか。その顛末は、詳しく最終章に描かれています。

 二人だけの教室で、間もなく日本に帰ろうとする著者に向けて、「あなたのご活躍を祈っています」と告げて、ひとり教室に残った恩師との別れは、ほんとうに胸に迫ります。

 言葉の真なる意味での「学恩」への言葉に尽くせない感謝の思いと、からだの中を駆けめぐるさまざまな感情、交錯する思い出の数々——。

 数日後。批評史の授業がおこなわれていた誰もいない教室で、先生との記憶をたどりながら著者は思います。

<私はきっと、いつでもふたたびここへ帰ってくる。モスクワへ来れば実際に、そうでないときには心のなかにあるこの場所へ。>


 すると、ロシア語を学び始めた時に味わった「不可思議な多幸感」とは比べものにならないほどに、強く、温かな「幸福感」に包まれます。

<浮き輪につかまって海に入ったようなかつての心もとない学びではなく、いくらひとりでいても孤独ではない安心感があった。(略)いつのまにか、かつての自分といまの自分はまったくの別人というくらい、私の内面は変わっていた。私を変えた人はこれからもずっと、私を構成する最も重要な要素であり続けるだろう。>


 帰国する直前に、著者が手にした「答え」です。「崖っぷち」に追いこんで、自らつかんだ確信です。

サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』(奈倉有里訳、集英社)*4

 この本の帯には、<「分断する」言葉ではなく、「つなぐ」言葉を求めて。>とあります。

<文学が歩んできた道は人と人との文脈をつなぐための足跡であり、記号から思考へと続く光でもある。もしいまその光が見えなくなっている人が多いのであれば、それは文学が不要なためではなく、決定的に不足している証拠であろう。>

 文学を探しに単身ロシアに渡った著者は、「文学への信頼」という答えを手に、次の旅の途上にあります。

■「註」奈倉有里さんの翻訳書

*1、ミハイル・シーシキン『手紙』(新潮クレスト・ブックス)
現代のモスクワと、100年前の戦場を結ぶ恋人たちの、時空を超えた愛の言葉。ウクライナ人の母、ロシア人の父をもつ、現代ロシアの代表的作家の長編小説。

*2、リュドミラ・ウリツカヤ『陽気なお葬式』(同上)
マンハッタンに暮らす亡命ロシア人たちの逞しい生活。死期が迫った主人公の放つ魅力と、取り巻く人たちとの生の讃歌。不思議な祝祭感と幸福感に包まれた、現代ロシアの人気女性作家による傑作小説。

*3、サーシャ・フィリペンコ『理不尽ゲーム』(集英社)
1984年ベラルーシ生まれの作家のデビュー作。10年の「昏睡」から目覚めた16歳の青年が見たものは? 1999年のミンスク地下鉄での群衆事故から2010年の大統領選挙後までの祖国の姿を自伝的要素を含めて描く。

*4、サーシャ・フィリペンコ『赤い十字』(同上)
「独ソ戦中の赤十字とソ連の知られざる交信記録を作者が歴史研究者と共に発掘し見事な物語に生かした名作」と奈倉さん。「いま読んでも号泣する。なのに不思議な希望を心に植えつけてくれる」とも。

奈倉有里『アレクサンドル・ブローク――詩学と生涯』(未知谷)

激動のロシア社会を歌った詩人アレクサンドル・ブローク(1880~1921)の本格的評伝。ブロークは、ペテルブルグの語学学校で奈倉さんが巡り合って魅了され、やがてモスクワで卒業論文のテーマとし、10年後に東京で博士論文のテーマとしました(2021年、第2回東京大学而立賞受賞)。本書は、その博士論文を大幅に改稿したもの。『夕暮れに夜明けの歌を』のタイトルは、ブロークの詩句がもとになっています。


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