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総合図書館閉館予告問題によせて —自殺行為としての閉館予告—(*1)

「近代大学の図書館というものは、もはや、図書をしまっておく場所ではない、図書をひらく、効果的に読ませる、利用させるような働きをする、その働きこそ近代大学図書館の役割である、ということであります。また、さらに、大学の理想の形としましては、全学の教授、学生、研究者のすべてが、全学のすべての図書を、たやすく利用できるようになれなければならない、そして、その使命をあずかるものは大学図書館である、というきわめて単純な、そしてそれ以上の何ものでもない考え方にもとづいてこの改善を行ったのでございます。」
1963年12月1日「東京大学附属図書館改善記念式典にあたって(式辞)」


 東大本郷キャンパスの顔である総合図書館(以下、総図とします)が突如打ち出した事実上の閉館予告(*2)は、驚きと怒りをもって受け止められています。オンライン署名プラットフォームであるchange.orgで「閉館に反対する学生の会」が立ち上げた「東京大学図書館の、一年間に及ぶ閉館の決定の撤回と、そのための情報開示を求めます」というキャンペーン(*3)は、署名開始からわずか2日の間に、1000人を超える賛同者(11月27日18時現在)を得ています。コメント欄には、東大関係者に限らず、さまざまなバックグランドをもつ人々からの義憤が寄せられています。単なる一国立大学に過ぎない本学の図書館事情にこれほど多くの人々が関心を寄せてくださっていることは、「一国立大学法人」という無味乾燥な行政文書上の地位にとどまらない、大学や学びを考える上での象徴的な意味、そして研究教育上の実際的な意義が本学に見出されていることの逆説的な証左でしょう。

 僕も、このキャンペーンに賛同するひとりとして、そして何より、総図のヘビーユーザーのひとりとして、この閉館予告について考えてみました。その際、僕も一度は飛びつきかけたのですが、日本の大学、学問、あるいは人文学一般の窮状の象徴としてこの閉館予告を論ずるのではなく、東大図書館自体の理念に寄り添いながら内在的な批判を試みたいと思います。

 確かに「今回の変更(*4)には予算の事情が関係していると示唆」する匿名情報(*5)を「閉館に反対する学生の会」が紹介しているように、おそらく、工期の前倒しの背景には国立大学法人の厳しい財政状況が遠因にあることでしょう。しかし、既に同会が図書行政商議会に対して利用停止に至る経緯およびその合理的理由についての情報公開(*6)を求めている以上、閉館予告を大学・学問一般の窮状と結びつける分析は公開される(と信じたい)情報に基づき実証的になされるべきです。例えば「反知性主義の象徴としての閉館予告」といった語りに代表される解釈の枠組みには心惹かれるものがありますが、そうした枠組みは往々にして独り歩きするもので、総図に独自の意思決定・運営上の問題点が見過ごされてしまう恐れがあります。それでは現時点で、閉館予告について何らかの批評を加えることは不可能なのか?と言われれば、僕の答えは「否、可能である」となります。

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 以下、僕は、大学や学問一般の窮状などの外部の文脈を参照するのではなく、今日の東大図書館に込められた理念に立ち返って、いわば「理念からの逸脱」として今回の閉館予告を捉えたいと思います。

 皆さんは、1960年の第15代図書館長就任から東大図書館の改革を率い、今日の図書館制度の礎石を築いた人物をご存知でしょうか。彼の名は、岸本英夫(きしもとひでお、1903−1964)。文学部宗教学宗教史講座の教授も務めた彼は、奇しくも僕の師の師の師にあたる宗教学者です。そうした不思議な縁(*7)を感じながら、岸本の小論・講演をまとめた金子豊編(2015)『岸本英夫図書館関係著作集—大学図書館のあるべき姿を求めて—』をよすがに、図書館長としての岸本の思考の軌跡を追いかけてみたいと思います。

 岸本は1960年4月の館長就任直後から精力的に活動を始め、同年8月には渡米、ハーバード大やミシガン大の図書館、ワシントンの議会図書館等を視察しています。彼にしてみれば、当時の東大図書館は研究教育との有機的な結合を欠いた「生ける屍」「巨人の死体」(p. 51)でした。今日の常識から振り返れば驚くべきことですが、当時の図書館は蔵書目録(ユニオン・カタログ)を欠き、読みたい本がどの図書館・図書室にあるのかは言うまでもなく、そもそも読みたい本があるのかどうかすら分からない、不便極まりない状態にありました(当世風に言えばOPACがないような状態でしょう)。それだけではありません。いまや僕たちが空気のように享受しているレファレンス・サービスや館外帯出制度の不在は、岸本をもってして「東大図書館は、あやうく近代以前に転落しかけていた」(p. 14)と語らしめるほどの惨状でした。こうした状況を「近代化」するために、岸本は数々の施策に打って出ます。

 「一体図書館の近代化とは何かを考える場合に、問題を難しく考えれば、いくらでも難しくなるでしょうが、根本の原理はそう難しいものではなく、むしろ簡単だと思います。半世紀前には、図書館というものは、日本でもアメリカでも、本を大切にしまって保存する「場所」であるというように考えられていました。…これに反して、近代図書館のアイデアは、よい本を読ませるはたらき自身が、図書館だという考えに変わって来たと思います。本というものは読まれるべきものだ、もし、本が読まれないとすれば、それは本ではなくて紙である。したがってよい本をより多く読ませるための積極的な働きかけが、図書館の任務の第一であり、それによって大学の教育の活動や研究活動の中にも参与して行く—結局、このような有機的な働きをするのが、図書館の近代化ということであると思います。東大なども、残念ながら、今日の状態では、それがまだ出来ておりません。年に一億円もの本を買っているのですが、その本が、どこかの書棚で定着してしまうのです。3年にいっぺん位プロフェッッサーが読んで、あとはそのまま、しまったままにされている。それは図書館ではなくて、書庫のようなものです。まず、この点の考え方を変えること、これが本物の近代図書館になる第一歩かと思われます。」(同書、p. 5)

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 岸本が挑んだ改革は、以下の四点に結実しました。

①全学総合図書目録130万枚(ユニオン・カタログ)の作成  
当時の日本で目録のカード化を行える業者が存在しなかったことから、既存の目録カードを35mmフィルムにおさめボストンに空輸、そこでゼロックスを用いてカード化した後、ロール状になったカードをパナマ運河経由で横浜まで海運した(p. 110)とのことです。考えるだけでも気が遠くなりますね...僕らは、ある意味130万枚のユニオン・カタログという「巨人の肩」抜きでは成立しえなかったOPACを何の気なく使っているわけです。

②東大の機構としての附属図書館体制の確立、および附属図書館・部局図書館の連絡調整 岸本の改革を経て「建前は総合大学でありますが、実状は、割拠的な壁が相当に厚い」(p. 111)東大に散在する200以上の図書館・図書室の連携体制が構築されていきます。いまだに若干の制限はあるものの、他学部図書館・他研究室の図書閲覧・貸出を可能にする条件を岸本は作り出したのです。

③指定書制度の強化  
いまや「図書購入リクエスト」サービスを使えば、どれほど高価な専門書であっても「授業で利用するため」と購入希望理由を添えれば、十中八九希望が叶えられます。僕自身、何度利用したか分からないくらいお世話になっているサービスですが、こうした学生の目線に立った図書購入の端緒も岸本の改革に求められます。授業を担当する各教授が指定した基礎的な研究書を開架で供し、自由な閲覧を可能にした指定書制度の充実(p. 111)は、現在では駒場図書館の2階、シラバスで指定された参考書を常設しているコーナーにつながっていきます。

④中央図書館(現総図建物)の近代的改装  
開架式の導入、閲覧室の拡充、レファレンス・サービスの設置、地下書庫の新設(pp. 103-104)など、現在の総図の原型が次々に生み出されました。

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 僕は図書館学や図書館情報学の専門ではありませんし、岸本の改革内容の当否について評価を下せる立場にはありません。それでも、「本は読むためにある」という基本理念に基づき「紙から本へ」「書庫から図書館へ」と岸本が成し遂げたことは、図書館をこよなく愛する利用者のひとりとして、間違いなく現在の東大図書館の礎となっていると感じます。

 今回の閉館予告は、1年という限定的な期間であったとしても、岸本に仮託して言えば「本から紙へ」「図書館から書庫へ」という逆行に他なりません。学生を軽んじた今回の予告によって、総図は自らの理念を裏切っているのです。それは巨人の自殺行為です。

 1963年12月1日、「東京大学附属図書館改善記念式典」で岸本は以下のように述べました。

「私は、図書館長になりましてから、その角度から、大学の中をもう一度見廻してみまして、実は、学生諸君のためにいささか義憤を感じたのであります。一体、大学というものは、学生のための教育というものを、これほどまでに忘れていいものだろうか、というのが私の率直な感じでありました。ことに、図書的な角度からそれが著しかったと思うのであります…」

 「学生のための教育」という視点を忘却していると受け取られかねない今回の一方的な閉館予告を岸本が耳にしたら、と仮想せずにはいられません。

  総図を再び「生ける屍」にしてはならない。50年前に岸本が発した義憤は、かたちを変えて、共鳴しています。その響きをもっと広げるために、皆さんの署名が必要です。こちらのリンクから簡単に署名ができます。どうぞ、よろしくお願いします。

 その響きの宛先 — 図書行政商議会 — を実効的な組織に改めたのが岸本であるのは、痛烈すぎる歴史の皮肉です。

                    東京大学文学部4年 佐々木 弘一                         総合図書館2階閲覧室にて


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脚註(ウェブページはすべて2016年11月27日に閲覧)

(*1)本稿は当初、2016年11月27日に著者のFacebookアカウントのノートとして公開されたものです。Facebookとnoteのレイアウトの違いから、若干表記を変更した部分がありますが、内容に変更は加えていません。

(*2)総合図書館の平成29年度本館耐震改修工事とサービスについて|東京大学総合図書館(http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/sogoto...)

(*3)Change.org キャンペーン「東京大学総合図書館本館の、一年間に及ぶ閉館の決定の撤回と、そのための情報開示を求めます」(https://www.change.org/p/東京大�...)

(*4)そもそも関東大震災で焼失した図書館に代わって昭和3年(1928年)に竣工した現総図建物は老朽化が激しく、数年前から部分的な改修工事が進んでいます。「今回の変更」とは全面的な改修工事が急遽一年前倒しになったことを指します。

(*5)UT508(@ut508)の11月18日のツイート(https://twitter.com/ut508/status/799620598766792704)

(*6)閉館に反対する学生の会(@heihankai)の11月27日のツイート(https://twitter.com/heihankai/status/802703049814773760)

(*7)この「縁」には続きがあります。岸本の妻は姉崎正治(あねさき まさはる、1873−1949)という人物の娘だったのですが、この姉崎、何を隠そう東大宗教学講座の初代教授なのです。さらに不思議なのは、関東大震災後で焼失した図書館に代わって、今日の総図の建物が再建されたわけですが、その再建時・再建後の図書館長を務めていたのも姉崎だったのです。どうやら東大宗教学と東大図書館の間にはただならぬ因縁がありそうです。  

  

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