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思い出される人のこと 1

私は今年誕生日で66歳になります。
そろそろ身辺整理を始める年代になってきました。
自分にとって大切なものはいくつかあります。
が、そのなかでも一番大切なものはご厚誼いただいた、先輩や後輩たちであると思います。
その方々も次第に鬼籍に入られた方が多くなってきました。
私の記憶もだんだんおぼつかなくなっていきます。
すべてが闇の中に戻っていってしまう以前になんとかアウトラインだけでも残しておければと思います。
それがお世話になった方への供養でもあるのかもしれません。

一人一人の思い出にひたる以前に、私の思い出の方々についてお読みいただく際のご参考になればと思い、私の前半生のことをちょっと書いてみます。

私は、昭和32年に生まれました。生まれたのは大田区の鵜の木というところ。それ以外は住所も何もわかりません。
おそらくは母は私を病院で産んだのだと思うのですが、どこの病院なのかもわかりません。
とはいっても一度どんな町なのか探りに出かけてみたいと思っています。
どうやら、両親が住んでいたのは一間とキッチンがついたくらいの貸間だったようですが、どんなところだったのか聞いておけばよかったです。
私は、鵜の木に数カ月いて、それから千葉県の船橋市に引っ越しました。もちろん親が引っ越したからなのですが、、、。

想像するに、子供が生まれ夜泣きをするので近所迷惑なのと、子供を育てる空間としてはちょっと手狭という考えで思い切って引っ越したのだと思います。
さて引っ越した先ですが、千葉県船橋市三山ということろです。
今船橋というと繁華で便利な所というイメージがあるかもしれません。
当時も船橋の駅前は繁華な所であったように思いますが、ちょっと離れると田舎でした。特に私がという私の親が移り住んだ三山というところは、雑木林とそれを切り開いた畑、標高がやや低い所は田んぼという土地柄でした。
小規模なデベロッパーがその一画を買って、道路を一本通して、その両側を宅地開発したという感じのところでした。
畑と田圃の間にその部分だけが宅地になっていたのです。
そこの一番奥の土地を購入したのでした。

それにしても不思議なことがあります。つまり、宅地開発の広告は多くの場合、その宅地の近所に対して行われるのだと思います。
それなのに、なぜ、鵜の木に住んでいた両親が遠く離れた千葉県の宅地開発のことを知ったのでしょう。
ひょとしたら、会社に営業がかけられたのかな、と思います。
父親が勤めていた会社に、パンフが届けられていたのかもしれません。
それならば、もうちょっと都会に近い物件もあっただろうによりによってすごい開発に興味を持ったものだと思います。
特別に安かったのかな。
とにかく、土地を買って、そこに家を建てたのです。
最初の家は、キッチンとそれに隣接する四畳半一間。それにトイレと風呂と玄関。薪で焚く風呂だったのを記憶します。
周りは未だ家はあまり建っていなくて、造成地とその背景は畑か田圃。そこにぽつんと立った一軒家。それを私が覚えているということは、何年間かそんな感じだったのかもしれません。
父親は、上司から本当に会社に通えるのか念を押されたそうです。

確かに田舎でした。一番近くの町である大久保商店街に行くのには、裏の畑のあぜ道を歩いていくのですが、冬はそこから富士山が見えました。
私の住んだ家から奥は、畑も尽きて雑木林でした。

この土地に私は高校を卒業するまでずっと住み続けました。
その後、地方の大学に入り、転勤のある会社に勤めることになったので、この家に住む機会はその後少なくなりましたが、親は私が30歳頃まではここに住んでいたと記憶します。





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