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話の通じない人(コピペ人間の正体)

あなたにとっての『話の通じない人』、どんな人でしょうか。ノリが合わない・ソリが合わない・共通の話題がない?わたしは、「コピペ人間」がまず浮かぶ。どっかで聞いたことある・見たことある・スタンダードパッケージで構成されている人。というのがいます。たまにではなく、割とたくさん。

わたしは昔から「この人はどういう動機でいまこうしてるんだろうか」と考えながら相対する人を観る傾向があります。話の仕方、話題そのものまたは語彙の種類や傾向、対話の比率(そちらが多いか、こちらが多いか、聞き側か話し側かそれらはスイッチングするかしないかさらにその頻度)、目付きや口の上がり下がり、例え話の用い方、等々。これらで相手のかたちをメモしています。入れ物のかたちとと内容物を測定する感覚、こういうひとなんだなあって。しかし「コピペ人間」、彼らにはそれらにおいて特徴がないのです。特徴、いうなればバリとかへこみ、ゆがみや傷(勲章でもあるだろう)、極太のカラーマーカーで強調されているような部分、いい仕事してますねぇ…!!なデザインなど、が、ない。デフォルトのフォントにデフォルトの段組みで…いや、文章の形になっているならまだ構造という特徴が読める可能性がある。デフォルトの美というものもある。が、下手したら140字以下でしか成立していないかもしれない。いやその文字数に収める設計力というのもあるぞ。しかしその140字の中に踊るものも、引用・引用・コピー&コピー。彼らから透けて見える動機は「  」、名状しがたい虚無のような「   」。なんだこれは。

年齢が上がるにつれ、自分自身で付き合う人間を選択できたり、所属する(ことが可能な)コミュニティに何がしかの特質が付与されると出会いにくくなるのだけれど(おかげさまで快適の幅を増やせている)、年少の頃にはほとんどまわりがこれであると言って過言ではない気がしていた。

なんでそんな生き物が発生するのか。

実際、年少時は言語自体・コミュニケーション自体の学習・獲得時期であるし、見知ったものを真似てゆき修正している最中なのだから当然ではある。が、その時引っかかった不快な針は今でも頭を掠める時がある。鋭利に刺さる針、それは『同調圧力』、ないし『少数への排除行動』である。

「知らないの?」「遅れてるー!」

出た。またこれである。この手の言葉が大嫌いだった。最もよく聞いたのは小学生の頃だ。なぜ貴様と私とで情報の同期が行われていないことにとかく言われる筋合いがあるのか。知ってる知らないは人それぞれのタイミングで万人に置き得る状況であるのは明白であるのに。(今思えばマウンティングの初歩なのでしょう大変不愉快である。これをしてくる人間で有能な人を見たことは今のところひとりもない。ちなみに大人になっただろう今でも発話する人間は少なくない数観測されるが、一生かかわることはないだろうと思うと気が楽である。生態系が違うのだ。)

このようなものたちとの会話の成立は困難だ。会話の動機自体を共有出来ていないからだ。彼らは会話の内容に重きを置いていない。Aを出したらAを出してチューニングを合わせる…きれいに喩えるならそんな場としての会話というレジャーシートを広げる。わたしには調子のズレた謎の音を喚かせて手製の闘技場に引き込むアナウンスに思える。そして一方的な技の繰り出しである。声が大きいとまず有利、時流の笑い(大抵低俗である)を引用した連打、こちらは実際サンドバッグ扱いであるのに対人であるようなパフォーマンスは欠かさない、コピペ人間は周到である。

これらの応酬の中で学び取るのが「みんなと上手くやっていくちから」なら、それは本質的でなく生において不要なものだから無視して良い。が、ひとによっては無視できない大きさや力を持ってもいるのでしょう。腕力だって人それぞれ、誰もが殴り飛ばしに行くという選択肢を頭に浮かべるわけではないのだと後年になって知りました(ものの例えですよ)。草食動物の群れに放り込まれた干し草の一把であったことと、肉食動物に囲まれた草食動物であることとは図としては等質。

かくしてひとはひとと同じ情報を選択し同じリアクションを学習しわからないときは学習の語源同様模倣に頼って、この気味と頭と性根の悪い足の引っ張り合いの中で生きてゆく。そうしてコピペ人間の出来上がりである。ついでにCont+Dも連打して大量生産も可能である。多少の切り貼りのうまさや逆に稚拙さ(バリが取れてないねぇ)も散見されるが概ねは低俗で商業的ラインを超えない、接続詞がしっちゃかめっちゃかでも掛かりが妙でもお構い無しですよ揃わにやソンソン。揃えたいのは足並みなんですものああかれらはおどっているのです。踊っているのかなるほど、それは乱されては困りますから揃うものたちで群れねば踊れませんね。至極理にかなっています。

そういう百鬼夜行に見えていた子供の頃、今背が伸びて見渡せば、世界の様相の本質は不変。

「話ができる人がいるだけで解決する問題」とは、たしか早稲田ちえさんの短編読み切りマンガにあったフレーズだっただろうか。

ノリもソリも合わなくて結構、共通の話題などなくて良い。その人の向いてる方向や大切にしていること、尖り方、それらからくるその人のかたちをした言葉たち。それらの基盤にひとつまみの善性を感じ取ってわたしは、大人になって生きていることの幸せの強度を静かに味わっている。わたし以外にわからなくて結構、そう言える幸せである。


だからそこで削れてきみがつらくなるまえに、わたしが馬鹿を馬鹿と言うね。

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よく見たらショートカットキー、貼り付けはVなのにPと書いた小池だよ(お馬鹿さんですね)。頭文字じゃないんだよね…今度直そう。

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