一方通行の媒体っていいじゃない

SNS全盛期、たまったもんじゃありませんでした。

インターネットの一般家庭への普及から20年ほど、当時の自分は中学生、その頃から触っていましたが、YouTubeやニコニコが出てくる直前ごろにはあまりに疲弊してしまい、Webからごそっと身を引いた数年がありました(Web上での能動的な自己活動から心理的にドン引きする感じ)。

四六時中どこもかしこも井戸端会議の場が展開するのにはどうにも疲労がひどく、かといって小池は挨拶信者です。声をかけられたら無視ができない。ご挨拶にはご挨拶を返す、そうして会話が始まってしまう。そうではないのだ。私は人との交流を求めてこちらの世界にいるわけではないのだ。つながりたいのではない、各自が自由に泳いでいることをこそ愛するのである。

わたしは本や漫画や歌が好きだが、それは、向こうの世界に私が勝手にひっそり潜り込んで透明人間になれる点にある。勝手にそうしてることが居心地良いのである。向こうの世界の生き物がわたしに話しかけに来たらぎょっとして固まってしまう。わたしはわたしのなかに不用意に侵入を許したくはないのである。

じゃあなんで公開できる場所に物を載せてるのよ、って?それはわたしが、誰かにとっての「向こうの世界の生き物」になりたいからに他ならない。

エンターテイメントの在り方は双方向ではなく一方通行であるという点にこそ価値があるように思う。勝手に鑑賞し、勝手にあれこれ感じ、勝手に好いたり嫌う、それすべて個人的な内面の営みだ。大変に素晴らしい行為である。誰かに共感を求めることもなく、自分で、自分の感性と品位のもとに、向こうの世界と対峙する。そういう体験をする、エンターテイメントの主人公は鑑賞者なのである。向こう側の生き物は役なのである。でも主人公ってどうにもなじめなかったから、わたしはバックヤードで準備をして、役の日を過ごすことを選ぶ。

水の生き物が陸地にいたら死ぬんだよ。両生類になる進化をしろと、騒ぐ声たちは結局責任も取らなければ面倒も見ないで、弱体化する生き物自体を「運がなかった個体だ」と処理してゆくのだもの。そんなのごめんじゃないか?むこうは水の中に入ってこないし、入ってきたとしてレジャー気分である。誰だって自分の勝てるフィールドにいたいものね。でもそれを自覚してるかしてないかって、美醜の見分けの基準に思える。

水の中と空の中はとても似ているし、泳ぐことと飛ぶことは仲間だし。地を走るものはいつだって、憧ればかり肥らせる。

インターネット。今までの変化がああで、これからはさてどうなってゆくのやら。技術変遷の予想図よりむしろ、使う側の身の処し方が、です。鉄人28号の歌が流れてきます、良いも悪いもリモコンしだい。いつだって科学や技術自体に善悪はなく、その使い方・使われ方の結果として善悪的価値判断が議題に上るはずなのに。本質的問題の領域の手前で騒ぐ生き物の多いこと。

わたしはどこの生き物で、どう生きてゆくのか、ゆきたいのか、ゆけるのか。あなたはどこの生き物で、どう生きてゆくのか、ゆきたいのか、ゆけるのか。健全な関係で、どこかでお会いしたいものです。

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