__へ

2014-11-11

お誕生日を祝うメッセージって、その相手が自分にとって大きな存在であればあるほど、本人だけが目にする場所へ送ることが多い気がします。

でも、私がその人のお誕生日を祝う理由を、相手と自分の関係性を何も知らない第三者にもわかるように見せながら、でも言葉の矛先は本人からずらさずに、一切の内輪ネタや共通の記憶が通じない中、さらにその相手の名前も明かすことなくふたりの関係性の変化を追いながら描くというのは、何かお誕生日メッセージの究極形であるのではないかと思いました。

そしてそれを送るに相応しい相手がいる。


11月9日が私にそう思わせてから、だいぶ日にちが経ってしまいましたが、__おたんじょうびおめでとう!

鯉沼さん、鯉沼ちゃん、鯉沼、めぐ、めぐちゃん、めぐさん……
私を振り向かせる色んな呼び名があるけれど、
その中でも__の呼ぶ ‘鯉沼’ がいちばん ‘鯉沼’ な気がします。

今よりもお互いを苗字で呼び合う機会の多かった高校生の頃は、クラスも部活も同じでよく一緒にいたからか私たちはふたりセットでお互いを引き合いに出されることが多かった気がします。
外見なのかどこをそう思ってくれたのか、__に似てるねって言われると恐れ多くて、でも嬉しくて近いようで遠い__の存在を常に意識し続けていた高校3年間だったように思います。

いつだって私の想像を軽々と越えてくる人。

絵がね、とっても上手なの。
__の描く絵が好きで、__が絵を描いているところをその隣でじっと見ているのが好きで、
__の生み出す線には一切の迷いがなくて、この線は最初からここを通ることが前から決まっていたみたいに、プリントの裏を、テスト用紙の余白を、お絵かき帳を、油絵のキャンバスを、強い意志を持った線が駆け抜けてクロスして、仮に絵の世界で鬼ごっこをしたら絶対に捕まえられない人。

でもね、似てる似てる言われ続けていたけれど、私は全然似てない思うんだよね。
容姿の系統も、育ってきた環境も、ものの考え方も、人との接し方も、イメージされる色も、壁の作り方も。
でも、それでもここまでお互いがお互いの中で大きな存在であり続けられるのは、「説明のつかない感覚」みたいなものを絶対に外さなかったからだと思う。

んーそうだなあ例えば、街中の公衆電話ボックスで女の子が緊迫した面持ちで誰かに電話をかける描写を演出するってなったら、これ女の子にはコート着せたいね、となると冬だね、息も白くて凍りつくように寒くて、受話器と本体をつなぐ冷たいコードをかじかむ手がぎゅっと握って、その足元には傘からの水滴が滴り落ちて、箱の外では雨やら霙やらが降っていて……
みたいな会話になるのがもう想像つくもん。

でもこれ、どこがいいのか論理的な説明を求められてもおそらく答えることができない。
画になるか、画面として締まるか、画面が映えるか、みたいなところらへんに刺さる確かな感覚だけがふたりの中に共通してあって、それをふたりの公用語に起こしていくみたいな作業をしているときは、暗闇の中で手を繋いでいるときみたいにね、ぞくぞくする。

そんな__をTwitterのTL上で見つけると、いつも画面をスクロールする指が止まって、その後だいたいそれをスクショして、ときにはお気に入りし合う仲だけど、実は普段はめったに連絡取らないし、卒業してからほとんど会っていない。

どうしてだろうなあ、それどころか直接言葉を交わすことも、会おうとすることもどこか避けてきた自分がいて、お互いを知る友達から主に__の話を聞いて、その人を仲介役としてコミュニケーションがなされていた感じね、不思議だね。

お互い会いたいって言っているにも関わらず、なかなか実現性が伴わないこの距離感。
存在が大きすぎるがゆえに、簡単に会えないように遠くに追いやってしまっている節はあるけれど、もしかするとお互いが変わってしまっているかもしれないことが怖いのかな、ね。


そう思っていた数日前、なんとその本人から連絡が来た。
約半年ぶりに言葉を交わしても、高校生の頃のメールの続きみたいな文面で長い吹き出しが行き来する。
ああ、この感じ。
いいことがあったりしたときに、それをわざわざ私に報告しに来てくれることがどんなに私を支え動かすか。
それも遠くから私を見ていたんじゃないかってまるで見計らったかのようなタイミングで、私の背中を蹴り飛ばしてくれるような人がやって来てくれる。

つくづく恵まれているなあ、生かされているなあ。

そんな__に与えられたたくさんのものの中でも、特に今でも私の真ん中に置き続けている言葉がこれ。


これから鯉沼のことをね、
男子でも女子でも大好きになる人が
絶対ぜったい現れるからね、
大切にしてあげてね。
ちゃんと接してあげて。
鯉沼、大切なもの大切にしないとこあるから
いや別に大切じゃなかったらいいんだけど
とりあえず絶対現れるから!

……らしいです、アラウンド鯉沼の皆様。


これを言われた前後の脈絡までは思い出せないけれど、特に私が失恋したとかいうわけでもなくて、急にどうしたって思ったのは覚えている。
この言葉の本当の意味を知る日はまだ先なんだろうなとかなんとなくぼんやりと思って、当時はあまり気にとめていなかったけれど、なんだろう、あれから2年経った今、この言葉が残り続ける意味をじわじわと実感させようとしているんじゃないかなって場面が心当たりあるよ。
それはこの言葉が私の人との関わり方を慎重にさせるときがあるからなのかもしれないね。

でもそんなあまりに輝く__と自分を比較して落ち込んで、一時期は一緒にいるのを辛く感じたこともあったし、遠くから尊敬と羨望のまなざしで見つめるだけにしておこうかと思ったこともあった。

それでも卒業から2年経った今でも私の中で__が__で有り続けるのは、もしかしてこれは友情というよりベースにあるのは対抗心なんじゃないかと思って、いや、__に負けたくないとかではなくて、常に上を見据えて絵を描き続ける__を見ていると、あ、私も頑張らなきゃって思うの。

それ相応のクオリティの何かを与えられると、こっちもそれ相応のものをお返ししなきゃっていうのは高校時代からずっと思ってきたけれど、だってさー、素敵な人の近くにいるには自分も素敵でいなきゃいけないに決まってるじゃん。

これが高校生の頃の私だったらたぶん、遠くから見ているだけで満足していただろうから、なんというか、やっとここまで来たなといいますか。
思えば私が何かを書いたり作ったりするのも、こうして見てほしい人がいるからなんだろうなと思うと、そういう意味で、__は私を奮い立たせる起爆剤みたいな存在なんだろうなと思います。
なんだかもうありがとうございます。


自分でも引くくらい長々とここまで来ましたが、これね、思ったより難しかった。
最初に言っていたことのどのくらいを叶えられたのかわからないし、私による私のためだけの文章みたいになってしまったと思う。

んーでも__に宛てるものの出来が、自分的にあまり納得いかないものだったっていうのはなんだかいいなあ。







5分の1世紀生ききったあなたに乾杯₍₍٩( ᐛ )۶₎₎

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